庵野と共感するのはキャラ作りに自身の心理を投影するからなのではないか
なにかに貢いでないと条件当てはまらんからな
貢ぐ金もないやつらばかりや
もう終わりだよこの国
ワイの語彙力で説明できんのがもどかしいが
みんなが薄っすら感じてる言語化されてない感情をアニメ化してるのが宮崎駿やからな
ディズニーにはそれがない
湯婆婆圧倒してたやんけ
車売って貢いで女殺したやつとか配信者刺殺したやつみたいな上級カオナシなんやろう
20年前に予見してるとかやっぱ天才やなコイツ
金でしかコミュニケーション取れないないやつなんて何百年前からいるぞ
Vtuberとかソシャゲに課金してるとか美少女フィギュアにのめり込んでる奴とか
当てはまるけど描かれた当時はスパチャ文化なんてなかった
だから見事に弱者男性やネトウヨの虚しい本質を描いてるんだよね
最後凶暴化するのまで一緒
最近どっちも刺すまでいく奴が出るし
日本にいる自称「普通の人間」に多い
ほんまこれ
だからパヤオの言葉がブッ刺さってガチギレしてるんよね
実際パヤオの言う通りだから
Vや嬢に金払うとかあれは商売やから支払いで成り立ってるんで普通は何の間柄でもない人を好きな見た目だから勝手に金払うとか基本的には不可能なわけやし
商売ありきってどこかで正気に戻らないもんかね
ほんとにチー牛に対する解像度高くて驚く
ジブリの若い男アニメーターを観察してたからと言って
ここまでチー牛を正確にキャラに落とし込めるの才能やろ
そりゃ効くでしょw
急所を一撃ですよこんなもん
金品を貢ぐことでしか相手と関われないキモオタ悶絶するわ
いや日本人の姿そのものやな
パヤオがその一例ってだけで庵野もキモオタをからかって笑ってる方にシフトしてると思うの
その二人は最早オタクとは言い難いけどな
少なくともVtuberにスパチャしたりソシャゲガチャに課金したりしてるような人種とは違う
正直アニメの巨匠じゃなかったら犯罪やらかしててもおかしくない
『千と千尋の神隠し』を実存主義で読み解く
■ 実存主義とは何か?
実存主義とは、20世紀の哲学思想で、「人間はまず存在し、意味や本質はあとから自分で作る」という立場。
代表的な哲学者にはジャン=ポール・サルトルやマルティン・ハイデッガーがいる。
キーワードは「自由」「責任」「不安」「選択」。
誰かに決められた自分ではなく、自分で選び、自分で生きていく勇気を問うのが実存主義だ。
■ 名前を奪われるという喪失体験
物語の主人公・千尋は、異界で「千」と呼ばれ、本名を忘れかける。
これは「自分が誰か分からなくなる」という実存主義的なテーマそのもの。
ハイデッガーは、「人間は“本来的な自己”から逃れ、世間の言う『普通』に埋没しがち」と語った。
千尋はまさにその状態から、少しずつ本来の自分を取り戻していく。
■ 湯屋という不条理な世界
湯屋の世界は、不思議で不条理、そしてどこか冷たい。
これは「この世界に意味は与えられていない」という実存主義的な感覚に近い。
最初は不安に飲み込まれる千尋だが、やがて「どうすれば生きていけるか」を自分の頭で考え、自分の意志で動くようになる。
これは**“実存の目覚め”のプロセス**だ。
■ カオナシという“実存の影”
カオナシの存在もまた、実存的だ。
誰かに受け入れてもらいたくて、言葉を借りて、金をばらまく。
だが「自分が何者か」がわからないため、暴走してしまう。
カオナシは、「本当の自分を持たない人間の不安定さ」を象徴している。
そして千尋との関わりを通じて、ようやく静けさを取り戻していく。
→これは、他者との対話を通じて、自分の輪郭を取り戻していく過程でもある。
■ 湯婆婆と“他者による支配”
湯婆婆は、名前を奪って人を支配する存在。
これはサルトルが言う「他人の視線によって、自分が決められてしまう地獄」に通じる。
千尋は湯婆婆の管理下で働く中で、“他人の期待通りに動く存在”から、自分の意志で行動する人間へと変わっていく。
■ 実存の回復とは「自分の名を取り戻す」こと
最終的に千尋は、自分の名前を思い出し、自分の足で元の世界へと戻っていく。
これは実存主義において「自己を取り戻す」「自由の主体となる」という大きな意味を持つ。
カオナシ=「実存の不安」を生きる者
実存主義では、人間は「世界に放り出された存在」だとされる。
つまり、「自分が何者か」という明確な答えは、最初から用意されていない。
そんな“実存的不安”そのものを体現しているのが、カオナシ。
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名前がない(=アイデンティティの欠如)
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自分の声を持たない(=他者の言葉を借りてしか喋れない)
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他者に近づきたくて「対価(金)」を差し出すが、本当の意味でつながれない
彼は、**「自分が空っぽであることに耐えられず、他人との関係で自分を埋めようとする」**姿を映している。
他者に合わせて自分を“擬態”する存在
千尋以外の者に対して、カオナシはとにかく「相手の求めるものを与える」ことで関係を築こうとする。
でも、それって本当の関係じゃない。
湯屋の者たちは金に目がくらんで群がるけど、そこに「人格としての交流」はない。
カオナシは「他人の価値観で自分をつくろうとする苦しさ」の象徴。
これはまさにサルトルがいう「アンガージュマン(他人の視線により自分を定義される地獄)」状態だね。
暴走=“承認欲求”の破裂
千尋に無視されると、カオナシは金をばらまきながら暴走を始める。
これ、ものすごく象徴的。
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他人に受け入れられたい
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けど本当の自分を知られるのは怖い
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だから「モノ」や「他人の言葉」で繕う
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でもそれが通じなかったとき、存在の不安が爆発する
→この“承認欲求が満たされないことへの絶望”が、彼の狂気として描かれている。
千尋との関係が変化の鍵
唯一、カオナシが穏やかになるのは「千尋と一緒に列車に乗って移動する場面」。
ここで千尋は、金も権力も受け取らず、ただカオナシと“対等に”接する。
千尋はカオナシを「空っぽの存在」ではなく、「共に歩める一人の個」として扱う。
これは、実存的孤独を他者との本当の対話で乗り越えていく可能性を示しているとも読める。
銭婆の家での「静けさ」=実存の再生
ラスト近く、カオナシは銭婆のもとに預けられる。
そこでは暴走もせず、静かに穏やかに暮らす。
これは、彼が「他人の価値」ではなく、「自分のペースで存在できる空間」を手に入れたということ。
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金も暴力もいらない
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他人に合わせる必要もない
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ただそこに「いていい」と言われる
→これがまさに、実存主義が目指す「自己としての存在の肯定」だね。
引用元: ・宮崎駿「カオナシは主体性が無く、金品を貢ぐしかコミュニケーションがわからない自己性愛者」

求められないが故に与える事しかできない人なんだよ
求められる価値が無いんだよ