うちの中学には、もうほとんど使われていない旧校舎があった。

新校舎が建ってからは物置みたいな扱いで、体育祭の道具や古い机、壊れたストーブなんかが押し込まれていた。昼間に見るとただ古いだけの建物なんだけど、夕方になると妙に暗くて、渡り廊下の向こうだけ空気が違って見えた。

その旧校舎の三階に、放送室があった。
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他の教室は鍵が開いていることもあったのに、その放送室だけはいつも二重に鍵がかけられていた。先生に理由を聞いても、「危ないから入るな」としか言わない。

危ないなら旧校舎ごと立ち入り禁止にすればいいのに、なぜか放送室だけ妙に厳しかった。

俺たちの間では、そこにまつわる噂があった。昔、昼休みに校内放送をしていた女子生徒が、マイクを切り忘れたままいなくなったという話だ。

ただ、どこまで本当かは誰も知らない。よくある学校の怪談みたいなもので、俺も本気にはしていなかった。

でも、その噂には続きがあった。

今でもたまに、誰もいないはずの放送室から声が流れるらしい。

「まだ帰らないでください」

その一言だけ。

俺がそれを聞いたのは、中二の秋だった。

その日は文化祭の準備で帰りが遅くなっていた。俺と友達の田村は、美術室で看板を描いていた。時計を見ると、もう六時を少し回っている。外はすっかり暗くなりかけていて、窓には教室の中の蛍光灯と、俺たちの影だけがぼんやり映っていた。

「そろそろ帰るか」

田村がそう言った時だった。

校内のスピーカーから、ザザッというノイズが流れた。

最初は先生の下校放送かと思った。でも、聞こえてきたのは先生の声じゃなかった。女の子の声だった。

古い録音みたいに少しこもった声で、こう言った。

「まだ帰らないでください」

それだけだった。

放送が切れると、美術室は急に静かになった。さっきまで聞こえていた外の車の音まで遠くなった気がした。

田村が小さな声で言った。

「今の、旧校舎のやつじゃね?」

俺は笑ってごまかそうとした。でも、喉が変に乾いていて声が出なかった。

その時、美術室のドアがノックされた。

コン、コン。

二回だけ。

俺たちは同時にドアの方を見た。すりガラスの向こうに、誰かが立っていた。背の高さからすると女子生徒みたいだった。

でも、その時間に女子が残っているとは聞いていなかった。文化祭準備で残る生徒は先生が名簿で確認していたし、美術室にいたのは俺と田村だけのはずだった。

田村が、震えた声で聞いた。

「誰?」

返事はなかった。

もう一度、ノックの音がした。

コン、コン。

怖くなかったわけじゃない。ただ、黙っている方がもっと怖かった。俺は無理に強い声を出して言った。

「入っていいよ」

ドアは開かなかった。

その代わり、すりガラスの向こうの影が、ゆっくり横にずれていった。廊下を歩いていく足音はしなかった。

田村が言った。

「帰ろう」

俺たちはほとんど荷物を片づけないまま、美術室の電気を消して廊下に出た。廊下には誰もいなかった。

ただ、美術室の前の床に、濡れた足跡がついていた。

裸足の足跡だった。

それは廊下の奥、旧校舎へ続く渡り廊下の方へ続いていた。

俺たちは足跡と反対方向に歩き出した。最初は歩いていたけど、すぐに早足になって、階段の前に着く頃にはほとんど走っていた。

その時、またスピーカーが鳴った。

ザザッ。

「二年三組、田村くん」

田村が足を止めた。

俺も止まってしまった。

「二年三組、田村くん。まだ帰らないでください」

田村は真っ青な顔で俺を見た。何か言おうとしていたけど、口だけが少し動いて、声は出ていなかった。

次の瞬間、廊下の奥から音がした。

ペタ、ペタ、ペタ。

裸足で床を叩くような音だった。

俺たちは階段を駆け下りた。上履きのまま玄関まで走って、靴もまともに履かずに外へ飛び出した。

校門のところまで来て、俺は一度だけ校舎を振り返った。

新校舎の三階、美術室の窓に誰かが立っているように見えた。

でも、はっきりとは見えなかった。暗い教室の中に、こちらを向いているのか、ただ立っているだけなのか分からない影があった。

気づいた瞬間、田村が俺の腕を引っ張った。

「見るな」

その声があまりに本気だったから、俺はそれ以上振り返らなかった。

次の日、俺たちは担任に昨日の放送のことを話した。

先生は最初、怒るでも笑うでもなく、黙って聞いていた。そして少し間を置いてから言った。

「旧校舎には入ってないな?」

俺たちが頷くと、先生はようやく息を吐いた。

その日の放課後、何人かの先生が旧校舎を見に行ったらしい。放送室には誰もいなかった。マイクも電源も入っていなかった。

ただ、放送卓の上に古いカセットテープが置かれていたと、あとで聞いた。

ラベルには、かすれた字でこう書かれていたらしい。

「帰った人」

田村はその後、三日間学校を休んだ。理由は風邪ということになっていた。

復帰した日の昼休み、田村が俺を校舎裏に呼び出した。顔色はまだ悪くて、目の下に濃いクマができていた。

「あの日さ」

田村はそう言って、しばらく黙った。

「家に帰ってから、インターホン鳴ったんだよ。夜の九時過ぎに」

玄関のモニターには誰も映っていなかったらしい。

でも、スピーカーから声だけが聞こえたという。

「田村くん」

学校の放送と同じ声だった。

怖くなって親を呼ぼうとした時、玄関の外からもう一度声がした。

「まだ帰らないでって言ったのに」

それを聞いたあと、田村は熱を出して寝込んだ。

俺は何も言えなかった。

田村は校舎の壁を見たまま、ぽつりと言った。

「俺、あの時お前が振り返らなくてよかったと思ってる」

「なんで?」

「校門のところ」

田村はそこで一度言葉を切った。

「あの時、お前は後ろを見なかっただろ」

「ああ」

「俺は少しだけ見えたんだよ」

「何が?」

田村は俺の顔を見なかった。

「俺たち、二人で走ってたはずなのにさ」

そこで、また黙った。

風が吹いて、校舎裏の植え込みが少し揺れた。

田村は最後に、消えそうな声で言った。

「影が三つあったんだよ」




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