妻がいなくなった翌朝から、保育園の連絡帳は僕が書いている。

結衣は四歳になる。

朝食、睡眠、体温、機嫌。
今までは妻に任せていたので、最初は何を書けばいいのか分からなかった。

最初の日、先生からこう書かれていた。

「お昼寝の前に泣いてしまいました。『ママに会いたい』と何度も話していました」

僕は、なるべく落ち着いた字で返事を書いた。

「妻は実家に戻っています。急なことで、娘もまだ受け入れられていないのだと思います」

園には、そう説明するしかなかった。
ChatGPT Image 2026年6月30日 17_25_23


あの夜、僕たちは少し揉めた。
結衣には寝室にいるように言ったのに、あの子はふすまの隙間から、ずっと和室の方を見ていた。

子どもは、変なところだけよく覚えている。

次の日の連絡帳には、少し気になることが書かれていた。

「結衣ちゃんが『ママはおうちにいる』と言っていました。和室の押し入れを気にしている様子があります」

僕は少し迷ってから、こう書いた。

「母親と離れた不安から、そう言っているのだと思います。家でも押し入れの前に座ることがありますが、危ないので注意しています」

和室の押し入れは古い。

奥の板が一枚だけ外れるようになっていて、その向こうに配管を見るための狭い点検口がある。
子どもの頃、父からは、絶対に触るなと言われていた。

大人が長くいる場所ではない。

もちろん、そんなことを連絡帳に書く必要はない。

その夜、結衣が台所からコップを一つ持って、和室に行こうとした。

「何してるの」

そう聞くと、結衣は困った顔で言った。

「ママ、のどかわいたって」

子どもは残酷だ。

大人が終わらせようとしている話を、毎日、平気で元に戻してくる。

僕はコップを取り上げて、結衣を布団に戻した。

その翌日、先生の字は少し硬くなっていた。

「可能であれば、お母様とも一度お話しできますでしょうか。結衣ちゃんの様子について共有したいことがあります」

面倒なことになってきたと思った。

妻のスマホは、まだ家にあった。

和室の低い棚の上に残っていた。
ロック番号は、結婚記念日のままだった。

園には、妻の番号から連絡すればいい。

ただ、先生は「お母様とも」と書いている。
文字だけでは済まないかもしれない。

妻は電話に出る時だけ、少し声が高くなる。

「いつもお世話になっております。結衣の母です」

夜中、廊下の明かりだけをつけて、小さく練習した。

録音して、聞いて、消した。

何度か繰り返すうちに、自分でも少し似ていると思った。

最後の一回だけ、消す指が止まった。

「いつもお世話になっております。結衣の母です」

録音を止める前に、廊下の奥で押し殺したような咳がした。

和室の方からだった。




蹴りたい