台湾には、道端に落ちている赤い封筒を拾ってはいけない、という話がある。
赤い封筒といえば、本来はめでたいものだ。旧正月、結婚祝い、お年玉。中にお金が入っていれば、普通なら幸運に見える。
だが、その封筒の中に入っているのが、写真、髪の毛、生年月日を書いた紙だったらどうか。
それを拾った男性は、すでに亡くなった女性の「夫」として選ばれる。
拾う、という何気ない行為が、死者との婚礼の入口になる。
怪談のような話だが、これは台湾や中国の一部で語られてきた「冥婚」という風習と結びついている。冥婚とは、亡くなった人に結婚相手を与える儀礼のことだ。
死者同士を結婚させる場合もあれば、死者と生きている人間を形式的に結びつける話もある。現代の感覚では奇妙で、不気味で、どこか理解しがたい。
けれど、この風習が妙に気になるのは、単に「死者と結婚する」という異様さだけではない。
人はなぜ、死んだ人にまで「結婚」を与えようとしたのか。
台湾の赤い封筒の話が怖いのは、入口があまりにも日常的なところにある。
道に封筒が落ちている。拾う。ただそれだけで、知らない家の死者供養に巻き込まれる。幽霊が襲ってくるわけではない。呪文が書かれているわけでもない。
拾った瞬間、自分の知らないところで「死者の人生の続き」に組み込まれてしまう。
赤い封筒は、本来なら祝福の象徴である。めでたい色、縁起の良い色、人と人の縁を結ぶ色。それが冥婚の文脈に入った途端、意味が反転する。
祝いの赤が、死者との契約の色になる。
もちろん、現在の台湾で誰もが本気で信じているという話ではない。都市伝説や民間信仰として語られる面も大きい。それでもこの話が残るのは、「拾う」という小さな行為が、死者との縁に変わるからだ。
異界への入口は、森の奥や廃墟にあるとは限らない。道端に落ちた封筒一つで開いてしまう。

冥婚とは何か
冥婚とは、未婚のまま亡くなった人に結婚相手を与える風習である。
かつての社会では、結婚は今よりずっと重かった。家と家をつなぎ、子孫を残し、祖先を祀る流れに入る。結婚は恋愛だけではなく、家の秩序でもあった。
だから、未婚のまま死ぬことは、単に「結婚しなかった」では済まされなかった。人生が途中で止まったように見えた。どこにも正式に属さないまま、死者になってしまったように見えた。
そこで、死後に結婚相手を用意する。死者同士を夫婦にする。絵の中で婚礼を完成させる。形式だけでも、死者に「結婚した人生」を与える。
冥婚は死者のための儀式に見える。だが、それだけではない。
生きている側が、未完の死をそのままにしておけなかったのである。
中国の冥婚、“幽霊花嫁”という闇
中国にも、死者に結婚相手を与える冥婚の風習が古くから知られている。
未婚で亡くなった者の魂を慰める。あの世で寂しくないようにする。災いを避ける。そう考えれば、死者にも伴侶を用意するという発想は、供養の一種として理解できる部分もある。
しかし、中国の冥婚には暗い側面がある。
死者の花嫁、死者の花婿を求める需要が生まれると、それは金銭と結びつく。一部では、遺体売買や墓荒らしにまで発展した事件が報じられている。
亡くなった女性の遺体が「幽霊の花嫁」として売られる。墓から遺体が盗まれる。死後間もない遺体ほど高値になる。
死者の身体に、値段がつく。
ここまで来ると、もはや供養ではなく市場である。
怖いのは、死者と結婚するという発想だけではない。死者を慰めたいという願いが、条件次第で、死者を商品に変えてしまうことだ。
祈りと搾取が、同じ風習の中で隣り合ってしまう。

日本のムカサリ絵馬、怖いというよりかなしい
日本にも、冥婚に近い風習がある。山形県の村山地方に伝わる「ムカサリ絵馬」だ。
「ムカサリ」とは、山形の方言で結婚を意味する。未婚のまま亡くなった人を、花嫁や花婿と並んだ婚礼の姿で絵馬に描き、寺社に奉納する。
中国や台湾の冥婚と違い、ムカサリ絵馬では実在の誰かと結婚させるというより、絵馬の中で象徴的に婚礼を完成させる。架空の相手を描き、亡くなった人に「結婚した姿」を与えるのである。
これは怖いというより、かなしい。
結婚する前に亡くなった子どもを、せめて絵の中だけでも花嫁姿にしてやりたい。花婿にしてやりたい。叶わなかった人生の節目を、死後にでも与えてやりたい。
絵の中でだけ、亡くなった人の人生が先へ進む。
そこには、遺族の切実な思いがある。
ただ、ムカサリ絵馬も単なる美談では終わらない。そこには「結婚して一人前」「家を継いで一人前」という時代の価値観も映っている。
死者への愛情と、社会が決めた人生の型。その両方が、一枚の絵馬の中に並んでいる。

世界にもある「死者との結婚」
死者との結婚は、台湾や中国、日本だけの話ではない。
フランスには、例外的に死後婚を認める制度がある。亡くなった本人に結婚の意思があったと認められ、重大な理由がある場合、死後に婚姻が認められることがある。これは霊を慰める儀礼というより、亡くなった婚約者の意思や、残された相手の人生をどう扱うかという法律の問題に近い。
南スーダンのヌエルなどの社会では、「ゴースト・マリッジ」と呼ばれる仕組みが知られている。男性が子を残さずに亡くなった場合、死者の名で結婚が行われ、生まれた子どもを死者の子として扱う。ここで重視されるのは恋愛ではなく、血筋や家の継続である。
インド南部にも、亡くなった子ども同士を後から結婚させる儀礼があるとされる。本人たちの代わりに衣服などを置き、親族が集まる。叶わなかった人生の節目を、儀式として与えるわけだ。
同じ「死者との結婚」でも、意味は文化によって違う。
魂を慰めるための結婚。家や血筋を続けるための結婚。亡くなった婚約者との関係を社会的に認める結婚。幼くして死んだ子どもに、人生の区切りを与える結婚。
形は違っても、死によって切れた関係をそのまま終わらせたくない、という感情はどこかで重なっている。
なぜ死者をそのままにしておけないのか
冥婚やムカサリ絵馬の根にあるのは、「死者を未完のままにしておけない」という感情である。
未婚で亡くなった人を、かわいそうだと思う。ひとりであの世に行かせたくないと思う。本来なら経験したはずの人生を、何らかの形で与えてやりたいと思う。
この気持ち自体は、現代人にも分かる部分がある。
一方で、違和感も残る。本人が本当に結婚を望んでいたのかは、もう分からない。それでも遺族や社会は、「結婚していない死者は不完全だ」と考えてしまう。
死者を慰めたい。だが、死者にまで生者の価値観を当てはめている。孤独にしたくない。だが、結婚こそが救いだと決めてしまっている。
冥婚が奇妙なのは、優しさと支配が同時に見えるからだ。
赤い封筒の中にあるもの
現代人にとって、結婚は生きている人間同士のものだ。未来に向かい、一緒に時間を重ねていく制度である。
ところが冥婚では、その片方がすでに死んでいる。
未来へ向かうはずの結婚が、死者の過去を完成させるために行われる。そこに強い違和感がある。
死者のためなのか。遺族のためなのか。魂のためなのか。家のためなのか。その境目は曖昧なまま、儀式だけが残る。
だから冥婚は、ただの美談にも、ただの怪談にもならない。不気味なのに、どこか切ない。古い因習に見えるのに、人間の感情として分かってしまう部分もある。
道端に赤い封筒が落ちている。
中に入っているのは、金ではない。写真と髪の毛と名前。誰かが終わらせられなかった人生の続き。
拾った瞬間、それはもう落とし物ではなくなる。
死者は何も言わない。
それでも生者は、赤い封筒を置き、絵馬に花嫁を描き、誰かの隣に死者の席をつくる。
参考
・赤い封筒を拾った男性は死者と…台湾、ガイド本にはない驚きの風習|withnews
https://withnews.jp/article/f0151102002qq000000000000000W0230301qq000012650A
・「ムカサリ絵馬」展|東北大学
https://www2.sal.tohoku.ac.jp/mukasari/index.html
・【結婚の定義コラム・その2】「ムカサリ絵馬」と「結婚」|せんだいメディアテーク
https://www.smt.jp/projects/dom/2023/08/2-1.html
https://withnews.jp/article/f0151102002qq000000000000000W0230301qq000012650A
・「ムカサリ絵馬」展|東北大学
https://www2.sal.tohoku.ac.jp/mukasari/index.html
・【結婚の定義コラム・その2】「ムカサリ絵馬」と「結婚」|せんだいメディアテーク
https://www.smt.jp/projects/dom/2023/08/2-1.html
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