病院のベッドで目を覚ます。
自分の名前が分からない。鏡に映る顔にも見覚えがない。目の前にいる人たちは家族だと名乗り、あなたの過去を次々と語るが、どの話にも実感がない。
身体だけは昨日までと同じだ。しかし、好きだったものも、嫌いだったものも、大切にしていた約束も覚えていない。性格まで以前とは変わっていたら、そこにいる人は本当に「昨日までのあなた」なのだろうか。
私たちは普段、自分が昨日と同じ人間であることを疑わない。だが、何を根拠にそう信じているのかと聞かれると、答えるのは意外に難しい。
自分とは、記憶なのか。身体なのか。性格なのか。それとも、それらをすべて失っても残る「何か」があるのだろうか。
「自分」は何でできているのか
名前は、生まれたときから自分で知っていたものではない。親から与えられ、周囲から呼ばれるうちに、自分を指す言葉として身についたものだ。
性格も最初から完成していたわけではない。経験や環境、人間関係によって少しずつ形を変えてきた。記憶も完全ではなく、忘れたり、実際とは違う形に作り替えたりしている。
身体も同じだ。子供の頃と現在では、見た目も大きさも変わっている。それでも私たちは、写真に写った幼い子供を見て「これは自分だ」と言う。
考えてみれば、「自分」を構成しているものは、どれも変化し続けている。それなのに、なぜ自分の中には変わらない何かがあるように感じるのだろう。
すべてを疑っても、「考えている私」は残る
この問題を考えるとき、最初に思い浮かぶのがデカルトの「我思う、ゆえに我あり」だ。
目の前の世界は偽物かもしれない。自分の身体さえ、夢の中で見ている幻かもしれない。記憶も、誰かに植えつけられた偽物である可能性を完全には否定できない。
しかし、すべてを疑っているその瞬間にも、「疑っている何か」が存在している。
自分の名前が分からなくても、過去を思い出せなくても、痛みや不安を感じ、目の前のことを考えている主体はいる。デカルトの立場からすれば、記憶を失ったあとにも、現在を経験している最小限の「私」は残っていることになる。
ただし、いま考えている主体が存在することと、その主体が昨日まで生きていた人物と同じであることは、別の問題だ。
少なくとも「我思う、ゆえに我あり」だけで確かめられるのは、いまこの瞬間に存在する私だ。それが昨日までの私と同じであるかは、まだ答えられていない。
記憶が切れたら、昨日の自分も消えるのか
哲学者ジョン・ロックは、人格の連続性を考えるうえで「意識」を重視した。
現在の自分が、過去の行動や経験を自分のものとして意識できる。そのつながりがあるから、子供の頃の自分と現在の自分を同じ人間だと思える。
たとえば、王子の意識と記憶が、靴職人の身体へ移ったとする。
王子として育った記憶を持ち、王子の家族や友人を知り、自分を王子だと思っている。その人物を、身体が違うという理由だけで靴職人と呼べるだろうか。
私たちは直感的に、王子の記憶を引き継いだ側へ「王子本人」が移ったように感じやすい。身体よりも、記憶や意識をその人らしさの中心だと考えているからだ。
だが、ロックの発想を現代的に押し進めると、さらに奇妙な問題が出てくる。
もし、あなたの記憶を二人の人間へ完全に複製したらどうなるだろう。二人とも、あなたの幼少期を覚えている。家族への感情も、後悔も、秘密も同じだ。どちらも心から「自分が本物だ」と主張する。
二人ともあなたなのか。それとも、複製された瞬間に、どちらもあなたではなくなったのか。
記憶は過去と現在をつなぐ。だが、記憶だけでは「どちらが本物か」を決められない。
そもそも私たちの記憶は、映像のように正確に保存されているわけではない。忘れた経験もあれば、何度も思い返すうちに形が変わった記憶もある。
記憶が自分の土台なら、忘れるたびに私たちは少しずつ別人になっていることになる。
失われる「本当の自分」など、最初からない
ここまでは、自分のどこかに変わらない核があることを前提にしてきた。しかし仏教は、その前提自体を疑う。
仏教の「無我」は、変化せず、単独で存在する永久不変の自我はないという考え方だ。人間は身体、感覚、認識、心の働き、意識など、さまざまな要素が一時的に組み合わさってできている。
これは「人間など存在しない」「すべてが無意味だ」という話ではない。
川を流れる水は一瞬ごとに入れ替わっている。それでも私たちは、それを同じ川として扱う。人間もそれに近いのかもしれない。
昨日の自分と今日の自分は、完全に同じではない。しかし、完全に無関係でもない。経験や身体、周囲との関係が影響を与えながら、一つの流れを作っている。
もしそうなら、自分とは最後まで残る固い核ではない。変化そのものを含んだ過程だということになる。
私たちが「本当の自分」を見つけられないのは、探し方が足りないからではない。最初から、見つけられるような完成品が存在しない可能性がある。
自分は発見するものではなく、作るもの
仏教と実存主義は、どちらも固定された自分を疑う。だが、向いている方向は同じではない。
仏教は「私」への執着をほどこうとする。実存主義は、決められた本質がないからこそ、自分の選択を引き受けようとする。
サルトルは「実存は本質に先立つ」と述べた。
道具は、何に使うかを決めてから作られる。ナイフには切るという目的があり、その目的に合うように形が与えられる。だが人間は、あらかじめ用途を決められて生まれてくるわけではない。
まず世界に投げ出され、そのあとで何を選び、どう生きるかによって、自分が何者なのかを作っていく。
この立場から見ると、記憶や性格を失ったとき、その奥から「本当の自分」が現れるわけではない。自分の内側に完成済みの本質が隠されているわけではないからだ。
それでも、自分で判断できる状態にある限り、人は次の瞬間に何かを選ぶ。
差し出された手を取るのか。拒むのか。目の前の人を信じるのか。知らない過去を、自分の過去として引き受けるのか。
過去を失っても、次の選択まで失われるわけではない。新たな選択と行動によって、その人の「自分」が再び作られていく。
実存主義にとって、自分とは失わないように守るものではない。生きている限り、作り続けるものだ。
もちろん、人間は何にでもなれるわけではない。身体、環境、時代、他人との関係から完全に自由にはなれない。記憶を失ったという事実も、その人が背負う条件になる。
自由とは、何の制約もないことではない。自分では選べなかった条件の中で、それでも次を選ばなければならないことなのだ。
あなたを覚えているのは、あなただけではない
ここで分けて考えたいのは、人格の連続性と人間の尊厳だ。記憶や性格が変わったとしても、その人の尊厳や権利まで失われるわけではない。
また、自分の記憶を失うことと、世界から自分の痕跡が消えることも同じではない。
本人が忘れていても、家族は一緒に過ごした時間を覚えている。友人は交わした会話を覚えている。助けられた人や傷つけられた人の中にも、その人の一部は残っている。
名前も、自分一人で使うものではない。誰かが自分を呼ぶための言葉だ。約束も、相手がいなければ成立しない。
私たちは、自分の頭の中だけで「自分」になっているわけではない。
哲学者ポール・リクールは、変化し続ける人間がそれでも自分であり続ける仕組みを、物語との関係から考えた。私たちは人生の出来事を結び、一つの物語として語ることで、自分が何者なのかを理解している。
だが、その物語は一人で書いたものではない。親から聞かされた幼少期の話、友人と共有している思い出、誰かから受けた評価も混ざっている。
だとすれば、自分は脳の中だけに保存されているのではなく、人と人との間にも分散している。
すべてを忘れた人に対して、家族が「あなたは以前こういう人だった」と語る。その言葉は失われた本人を取り戻すものなのか。それとも、過去の人物像を現在のその人に押しつけているだけなのか。
自分を覚えているのが自分だけではないという事実は、「私」という存在が想像しているほど孤立したものではないことを示している。
何が残れば「私」なのか
デカルトは、すべてを疑っても「いま考えている私」は消せないと考えた。ロックは記憶と意識の連続性を重視し、仏教は変わらない自我を探すこと自体を疑った。サルトルにとって、自分とは過去に保存されたものではなく、これからの選択によって作られるものだった。
冒頭の病院へ戻ろう。
ベッドで目を覚ました人には、昨日までの記憶がない。性格も変わっている。それでも身体は続き、現在を経験する意識があり、その人を覚えている他者がいる。そして、その瞬間から新しい選択が始まる。
その人は、昨日までのあなたの続きなのか。あなたの身体を受け継いだ別人なのか。
あるいは、「同じ人か、別人か」という二択では、人間という存在を捉えきれないのかもしれない。
私たちは毎日、何かを忘れ、考え方を変え、昨日までとは少し違う人間になっている。それでも、その変化を一人分の人生として引き受けている。
自分とは、最後まで残る何かなのだろうか。
それとも、失いながら作り続けているものなのだろうか。
記憶、身体、性格、他者との関係。どれが失われたとき、あなたは「もう以前の自分ではない」と思うだろう。

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