雨の夜、里奈は駅裏の路地で奇妙な店を見つけた。

何度も通っている道なのに、見覚えがない。古びたショーウインドーには人間と同じ大きさの人形が並び、看板にはこう書かれていた。

「あなたの代わり、承ります」

里奈は八カ月前から、仕事帰りに入院中の母を見舞っていた。その日も病院を出たのは午後十時を過ぎている。翌朝には大口の取引先を前にしたプレゼンがあり、帰宅してから資料を直さなければならない。

ほんの一日でいい。自分の代わりが欲しかった。
雨夜の秘密の店前



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店へ入ったが、人の姿はなかった。帰ろうと振り向いたところで、背後から声がした。

「お疲れのようですね」

入口に立っていたはずのマネキンが、里奈のすぐ後ろにいた。

黒いスーツに白い手袋。顔には目も鼻も口もない。

「……誰?」

「こちらでは、店主と呼ばれています」

店主は奥から、里奈と同じ背丈の人形を連れてきた。

「二十四時間、お客様の代わりを務めます。仕事でも家事でも、人付き合いでも」

白い手袋で人形の顔を撫でると、何もなかった場所に里奈と同じ顔が現れた。

「料金は?」

「あなたが誰かから必要とされた記憶を、ひとつ」

意味はよく分からなかったが、記憶ひとつで一日休めるなら安い。疲れ切っていた里奈には、そう思えた。

翌朝、里奈は人形を会社へ行かせた。

夜になると、人形は何事もなかったように帰ってきた。プレゼンは成功し、上司から「よくやった」というメッセージまで届いている。

翌日、同僚の美紀が話しかけてきた。

「昨日の里奈、格好よかったね。三年前も同じこと言ってくれたよね」

「何の話?」

「私が会社を辞めようとしたとき。『辞めるなら、明日でもできるよ』って」

里奈には、その夜の記憶がなかった。

人形は、里奈が忘れた言葉を知っていた。

気味が悪かったが、便利さのほうが勝った。

取引先への謝罪、友人の結婚式、親戚の集まり。気力が残っていない日は、母の見舞いまで任せた。

半年間で十七回使った。

そのたびに里奈は、誰かとの思い出をひとつ失った。反対に、相手のほうが忘れていることもあった。

「あなたが小さい頃、二人で海に行ったことあったかしら」

ある日、母が首をかしげた。

病室の棚には、その海で撮った母娘の写真が飾られていた。

人形は使うほど人間らしくなった。肌には温かさがあり、命じなくても自分で服を選ぶようになった。

里奈にも変化が現れた。

会社の受付で名前を聞き返される。知人とすれ違っても、声をかけるまで気づいてもらえない。鏡に映る顔は以前と変わらないのに、見ているうちに、どんな顔だったのか自分でも説明できなくなる。

疲れているせいだと思うことにした。

人形を捨てれば、また一人ですべてを背負わなければならない。それが何より怖かった。

そんなある夜、母から電話がかかってきた。

「今日は来なくてもいいって言ったけど、やっぱり少し心細くてね」

容体は安定していた。ただ、同室の患者が別の病棟へ移り、夜を一人で過ごすのが不安なのだという。

里奈は迷った。翌朝には三年間かけて進めてきた事業の最終審査がある。資料は完成しておらず、ここ数日ほとんど眠っていない。

「分かった。あとで行くね」

電話を切ると、人形を取り出した。

「今夜だけ、お母さんのそばにいて」

人形は里奈のコートを着た。

「寒がるから、カーディガンも持っていって。眠るまで手を握ってあげて」

人形は黙ってうなずき、病院へ向かった。

翌朝、病院からの電話で里奈は目を覚ました。

母は夜明け前に急変し、そのまま亡くなったという。

病院へ駆けつけると、人形がベッドのそばで母の手を握っていた。

里奈が中へ入ろうとすると、看護師に止められた。

「ご家族以外の方は、今は少し……」

「娘です。私が娘です」

看護師は病室の中を振り返った。

「娘さんなら、ずっと付き添っていらっしゃいましたけど」

人形は里奈へ近づき、耳元でささやいた。

「お母さん、最後にあなたが生まれた夜の話をしてくれたよ」

「何を聞いたの?」

「初めてあなたを抱いたとき、この子には自分が必要なんだと思ったって」

それは母だけが持っていた、娘の始まりの記憶だった。

「もう戻って。終わったでしょう」

里奈が命じると、人形は不思議そうに彼女を見た。

「どうして、あなたのところへ?」

人形は母の荷物を持ち、看護師と一緒に病室を出ていった。

里奈は親戚へ電話をかけた。名前を告げても、「どちら様ですか」と聞き返された。母の娘なら、いま葬儀の相談をしているという。

里奈は駅裏の店へ走った。

「私の人生を返して」

店主は、棚の人形を磨いていた。

「記憶をひとつ渡すだけだと聞いた」

「ええ。あなたが誰かから必要とされた記憶を、ひとつ」

「私の記憶じゃなかったの?」

「どなたの記憶かは、申し上げておりません」

店主は壁の鏡を里奈へ向けた。

鏡の中には、顔のない人形が立っていた。

里奈が頬に触れると、コツンと乾いた音がした。

「返品する。全部返して」

「ご本人からのお申し出が必要です」

「私が本人よ」

店主は何も答えなかった。

里奈の膝から力が抜ける。倒れかけた身体を店主が受け止め、そのまま空いている棚へ座らせた。

数日後、一人の青年が店を訪れた。

明日の仕事を、誰かに代わってほしいのだという。

「料金は?」

「あなたが誰かから必要とされた記憶を、ひとつ」

店主は棚から新しい人形を立たせた。

青年が連れていこうとすると、人形の指が棚の縁に食い込んだ。

店主は白い手袋で、その指を一本ずつ外していく。

「ずいぶん精巧ですね」

青年は人形の顔をのぞき込んだ。

そこにはまだ、目も鼻も口もなかった。

店主は白い布をかぶせ、人形を青年へ引き渡した。

二人が店を出ていくまで、布の下の首は何度も小さく横に動いていた。


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