1966年10月21日午前9時15分、イギリス南ウェールズの小学校が、約10万トンの黒い土砂に埋まった。
死者144人。うち116人が子どもだった。
休暇前最後の登校日だった。パントグラス小学校では出席確認が始まったばかりで、校内だけで児童109人と教師5人が死亡した。生存者が最後に救出されたのは午前11時ごろ。それ以降、捜索は遺体の収容へ変わった。英国地質調査所
事故は予測できなかったのか。
そうではない。崩れた山の下に泉があることは知られていた。過去にも土砂は動き、住民から苦情も出ていた。それでも廃棄は続けられ、事故後も刑事責任を問われた者はいなかった。
炭鉱から出た岩石、灰、細かな石炭くずを積み上げた「ボタ山」が崩れた事故である。
アバーファンは炭鉱によって成り立つ村だった。炭鉱は住民に仕事を与える一方、採掘するほど大量の廃棄物を生み出した。谷底に捨てる場所がなくなると、廃棄物は村を見下ろす山腹へ運ばれた。
1966年までに造られた堆積場は七つ。崩落した第7号堆積場は高さ約34メートルに達し、その下には住宅と小学校があった。
さらに、第7号堆積場は地下水が流れる場所に造られていた。
泉の存在は古い地形図に記され、住民にも知られていた。細かな石炭くずは水を含むと不安定になり、液体のように流れ出すことがある。それでも本格的な地質調査は行われず、地盤の専門家も日常的な管理にほとんど関わっていなかった。
事故後、英国石炭庁のローベンス会長は「知られていなかった泉」が原因だったと説明した。しかし泉は地図にも載っていた。
1944年、アバーファンにあった別の堆積場が崩れ、土砂が約500メートルにわたって斜面を流れ落ちた。村までは到達しなかったため、死者は出なかった。
1963年には、後に事故を起こす第7号堆積場でも土砂が動いている。
石炭庁はこれを堆積場自体の崩落ではなく、表面の細かな廃棄物が流れただけだと判断した。細かなスラリーの廃棄は中止したが、通常の廃棄物はその後も積み続けられた。
村では黒い水による浸水も起きていた。住民は自治体へ苦情を寄せ、自治体と石炭庁の間では「学校裏に積まれた石炭スラリーの危険」が実際に話し合われている。
石炭庁は排水設備への対応を約束したが、事故までに十分な措置は取らなかった。アバーファン事故研究資料
泉、過去の崩落、住民からの苦情。警告は一度ではなかった。それでも石炭庁は廃棄を止めなかった。
事故当日の朝、第7号堆積場の頂上部分が沈んでいることを作業員が発見した。その日の廃棄作業は中止されたが、内部にはすでに大量の水がたまっていた。
午前9時15分、堆積場が崩れた。
水を含んだ廃棄物は斜面を流れ、農家や住宅を押し流した。運河跡と鉄道堤防を越え、そのままパントグラス小学校へ突入した。
流れている間は液体に近かった土砂が、停止して水分を失うと再び固まった。子どもたちは机や建物の残骸とともに、硬い泥の中へ閉じ込められた。
村人や炭鉱労働者は、素手やシャベルで土砂を掘った。
給食費を集めていた44歳のナンシー・ウィリアムズは、土砂が校内へ流れ込んだとき、近くにいた5人の子どもへ覆いかぶさった。5人は救出されたが、ウィリアムズは死亡した。ITV News
村は一日のうちに116人の子どもを失った。
事故後の調査で判明したのは、英国石炭庁に統一された堆積場管理方針がなかったことだった。堆積場の点検、地質の判断、廃棄の中止権限は複数の部署に分かれ、各所に散らばった情報を集めて判断する責任者も明確ではなかった。
自治体は、専門組織である石炭庁が安全を確認していると信じていた。泉、過去の崩落、浸水の情報は別々に扱われ、廃棄を止める判断にはつながらなかった。
この構造は、社会心理学の「責任の分散」に近い。
多くの人が火災を目撃したとき、全員が「誰かが消防へ通報しただろう」と考え、結果として誰も通報しないことがある。他人も異変を知っていると思うほど、自分が行動する責任を感じにくくなるためだ。
心理学者のジョン・ダーリーとビブ・ラタネの実験でも、自分以外にも緊急事態を知っている人がいると思った被験者ほど、異変の報告が遅くなった。ダーリーとラタネの研究
もちろん、アバーファン事故を傍観者効果だけで説明することはできない。堆積場の管理責任は英国石炭庁にあった。
ただ、アバーファンでも関係者は多かったが、「誰が、いつ、何を止めるのか」は決まっていなかった。そのため、危険を示す情報があっても、廃棄の中止にはつながらなかった。
危険な状態でも大事故が起きない期間が続くと、組織はその状態を次第に許容する。アバーファンでも小規模な崩落や浸水は起きていたが、学校までは被害を受けなかった。高リスク産業における研究レビュー
その経験が「次は危ない」よりも「今回も大丈夫だった」を強めた。
異常は解消されたのではない。日常の一部になっていた。
責任は英国石炭庁にあると明記され、統一された管理方針の欠如、地質への無知、ずさんな監督、部署間の対立、情報伝達の失敗が指摘された。
石炭庁は、それでも調査開始後も長く責任を認めようとしなかった。英国議会議事録
最終的に組織の責任は認定されたが、刑事訴追された者はいない。石炭庁に罰金も科されず、事故を理由に解雇や降格となった幹部もいなかった。
遺族への補償は当初、犠牲者1人あたり50ポンドとされた。後に500ポンドへ引き上げられたが、石炭庁側はこれを「寛大な提案」と評価していた。British Academy
組織の責任は認定された。しかし、責任を取る人間はいなかった。
しかし村の上には、まだ複数の堆積場が残っていた。住民は再び崩れることを恐れ、完全撤去を求めた。
撤去費の全額を政府と石炭庁が負担するのではなく、被災者基金から15万ポンドを拠出させる方針が決まった。
事故を起こした施設の安全対策に、被害者へ寄せられた募金を使わせたのである。
慈善委員会は遺族への一律支給についても、親が亡くなった子どもと「親密だったか」を確認すべきだという姿勢を示した。基金の管理者は、この要求に抵抗した。
15万ポンドが返還されたのは1997年。物価上昇や失われた利息を考慮した150万ポンドが追加されたのは2007年だった。英国政府資料
規模はまったく違っても、そこにはアバーファンと同じ二つの心理がある。
「誰かが対応するだろう」
「今まで大丈夫だった」
アバーファンは、誰も危険に気づかなかったために起きた事故ではない。警告は何度も出ていた。しかし、その情報は部署から部署へ渡されるだけで、廃棄を止める行動にはつながらなかった。
雨が崩したのはボタ山だった。子どもたちを守れなかったのは、責任が誰かへ渡り続ける組織だった。
あなたの周囲で、危険だと分かっているのに「誰かがやるだろう」と放置されているものはないだろうか。

死者144人。うち116人が子どもだった。
休暇前最後の登校日だった。パントグラス小学校では出席確認が始まったばかりで、校内だけで児童109人と教師5人が死亡した。生存者が最後に救出されたのは午前11時ごろ。それ以降、捜索は遺体の収容へ変わった。英国地質調査所
事故は予測できなかったのか。
そうではない。崩れた山の下に泉があることは知られていた。過去にも土砂は動き、住民から苦情も出ていた。それでも廃棄は続けられ、事故後も刑事責任を問われた者はいなかった。
アバーファンで起きたのは、突然の土砂災害だけではない。危険を示す情報が各所にありながら、それを集めて廃棄を止める仕組みがなかった組織事故だった。
37%OFF
子どもたちの頭上に、七つの黒い山があった
アバーファン事故は、炭鉱内部の崩落ではない。炭鉱から出た岩石、灰、細かな石炭くずを積み上げた「ボタ山」が崩れた事故である。
アバーファンは炭鉱によって成り立つ村だった。炭鉱は住民に仕事を与える一方、採掘するほど大量の廃棄物を生み出した。谷底に捨てる場所がなくなると、廃棄物は村を見下ろす山腹へ運ばれた。
1966年までに造られた堆積場は七つ。崩落した第7号堆積場は高さ約34メートルに達し、その下には住宅と小学校があった。
さらに、第7号堆積場は地下水が流れる場所に造られていた。
泉の存在は古い地形図に記され、住民にも知られていた。細かな石炭くずは水を含むと不安定になり、液体のように流れ出すことがある。それでも本格的な地質調査は行われず、地盤の専門家も日常的な管理にほとんど関わっていなかった。
事故後、英国石炭庁のローベンス会長は「知られていなかった泉」が原因だったと説明した。しかし泉は地図にも載っていた。
問題は、泉を知らなかったことではない。それを危険として扱わなかったことだった。
1944年にも1963年にも、山は崩れていた
警告は地下水だけではなかった。1944年、アバーファンにあった別の堆積場が崩れ、土砂が約500メートルにわたって斜面を流れ落ちた。村までは到達しなかったため、死者は出なかった。
1963年には、後に事故を起こす第7号堆積場でも土砂が動いている。
石炭庁はこれを堆積場自体の崩落ではなく、表面の細かな廃棄物が流れただけだと判断した。細かなスラリーの廃棄は中止したが、通常の廃棄物はその後も積み続けられた。
村では黒い水による浸水も起きていた。住民は自治体へ苦情を寄せ、自治体と石炭庁の間では「学校裏に積まれた石炭スラリーの危険」が実際に話し合われている。
石炭庁は排水設備への対応を約束したが、事故までに十分な措置は取らなかった。アバーファン事故研究資料
泉、過去の崩落、住民からの苦情。警告は一度ではなかった。それでも石炭庁は廃棄を止めなかった。
午前9時15分、小学校は黒い土砂に消えた
1966年10月、アバーファン周辺では雨が続いていた。事故当日の朝、第7号堆積場の頂上部分が沈んでいることを作業員が発見した。その日の廃棄作業は中止されたが、内部にはすでに大量の水がたまっていた。
午前9時15分、堆積場が崩れた。
水を含んだ廃棄物は斜面を流れ、農家や住宅を押し流した。運河跡と鉄道堤防を越え、そのままパントグラス小学校へ突入した。
流れている間は液体に近かった土砂が、停止して水分を失うと再び固まった。子どもたちは机や建物の残骸とともに、硬い泥の中へ閉じ込められた。
村人や炭鉱労働者は、素手やシャベルで土砂を掘った。
給食費を集めていた44歳のナンシー・ウィリアムズは、土砂が校内へ流れ込んだとき、近くにいた5人の子どもへ覆いかぶさった。5人は救出されたが、ウィリアムズは死亡した。ITV News
村は一日のうちに116人の子どもを失った。
危険を知る人はいた。止める人はいなかった
なぜ、これほど多くの兆候がありながら、廃棄を中止できなかったのか。事故後の調査で判明したのは、英国石炭庁に統一された堆積場管理方針がなかったことだった。堆積場の点検、地質の判断、廃棄の中止権限は複数の部署に分かれ、各所に散らばった情報を集めて判断する責任者も明確ではなかった。
自治体は、専門組織である石炭庁が安全を確認していると信じていた。泉、過去の崩落、浸水の情報は別々に扱われ、廃棄を止める判断にはつながらなかった。
この構造は、社会心理学の「責任の分散」に近い。
多くの人が火災を目撃したとき、全員が「誰かが消防へ通報しただろう」と考え、結果として誰も通報しないことがある。他人も異変を知っていると思うほど、自分が行動する責任を感じにくくなるためだ。
心理学者のジョン・ダーリーとビブ・ラタネの実験でも、自分以外にも緊急事態を知っている人がいると思った被験者ほど、異変の報告が遅くなった。ダーリーとラタネの研究
もちろん、アバーファン事故を傍観者効果だけで説明することはできない。堆積場の管理責任は英国石炭庁にあった。
ただ、アバーファンでも関係者は多かったが、「誰が、いつ、何を止めるのか」は決まっていなかった。そのため、危険を示す情報があっても、廃棄の中止にはつながらなかった。
「今まで大丈夫だった」が警告を消していく
アバーファンでは、責任の分散に「逸脱の正常化」が重なった。危険な状態でも大事故が起きない期間が続くと、組織はその状態を次第に許容する。アバーファンでも小規模な崩落や浸水は起きていたが、学校までは被害を受けなかった。高リスク産業における研究レビュー
その経験が「次は危ない」よりも「今回も大丈夫だった」を強めた。
異常は解消されたのではない。日常の一部になっていた。
死者144人。それでも責任者は処罰されなかった
事故後の調査法廷は、アバーファン事故について「防ぐことができ、防ぐべきだった」と結論づけた。責任は英国石炭庁にあると明記され、統一された管理方針の欠如、地質への無知、ずさんな監督、部署間の対立、情報伝達の失敗が指摘された。
石炭庁は、それでも調査開始後も長く責任を認めようとしなかった。英国議会議事録
最終的に組織の責任は認定されたが、刑事訴追された者はいない。石炭庁に罰金も科されず、事故を理由に解雇や降格となった幹部もいなかった。
遺族への補償は当初、犠牲者1人あたり50ポンドとされた。後に500ポンドへ引き上げられたが、石炭庁側はこれを「寛大な提案」と評価していた。British Academy
組織の責任は認定された。しかし、責任を取る人間はいなかった。
被災者の募金で、残った山を撤去した
事故後、40を超える国から約175万ポンドが寄せられ、アバーファン災害基金が設立された。しかし村の上には、まだ複数の堆積場が残っていた。住民は再び崩れることを恐れ、完全撤去を求めた。
撤去費の全額を政府と石炭庁が負担するのではなく、被災者基金から15万ポンドを拠出させる方針が決まった。
事故を起こした施設の安全対策に、被害者へ寄せられた募金を使わせたのである。
慈善委員会は遺族への一律支給についても、親が亡くなった子どもと「親密だったか」を確認すべきだという姿勢を示した。基金の管理者は、この要求に抵抗した。
15万ポンドが返還されたのは1997年。物価上昇や失われた利息を考慮した150万ポンドが追加されたのは2007年だった。英国政府資料
気づいているだけでは、危険は止まらない
会議で全員が問題を知りながら、担当者が決まらないまま話が終わる。壊れた設備が「前からこうだから」と放置される。異変を報告しても「上が判断する」で止まる。規模はまったく違っても、そこにはアバーファンと同じ二つの心理がある。
「誰かが対応するだろう」
「今まで大丈夫だった」
アバーファンは、誰も危険に気づかなかったために起きた事故ではない。警告は何度も出ていた。しかし、その情報は部署から部署へ渡されるだけで、廃棄を止める行動にはつながらなかった。
雨が崩したのはボタ山だった。子どもたちを守れなかったのは、責任が誰かへ渡り続ける組織だった。
あなたの周囲で、危険だと分かっているのに「誰かがやるだろう」と放置されているものはないだろうか。

哲学ニュースnwk
















