1937年3月16日、新潟県の寺跡から、大きな甕とともに、奇妙な姿勢をした成人男性の人骨が発見された。
この土地では、人骨が出る前から「旅の僧が地すべりを止めるため、自ら人柱になった」という伝説が語られていた。村人は毎年、その僧を供養していた。
骨が見つかっただけで、人柱だったとは断定できない。それでも、「人柱はすべて作り話だ」と簡単に片づけられない発見だった。
日本各地の橋、堤防、城には、工事を成功させるため人間を埋めたという話が残っている。
橋や城の下に、本当に人は埋められたのだろうか。
古代の堤防で、神に名指しされた二人
『日本書紀』の仁徳天皇11年条には、大阪の茨田堤をめぐる人柱の話が記されている。
淀川の治水工事を進めていたが、二カ所だけ何度土を盛ってもつながらない。天皇が悩んでいると、夢に神が現れた。
二人は探し出され、強頸は泣く泣く人柱となった。すると、一カ所の工事は完成したという。
しかし、衫子は神託に従わなかった。二つのひょうたんを川へ投げ入れ、「本当に私を求める神なら、これを沈めてみせよ」と神を試したのである。
ひょうたんは一度水中へ引き込まれたものの、すぐに浮かび上がった。衫子は神の言葉を偽りと退け、自ら工事を完成させたとされる。寝屋川市「茨田堤」
古代の物語の中でさえ、衫子は「神が言ったから」では納得しなかった。人柱を信じる者がいる一方で、その正当性を疑う者もいたのである。
ただし、『日本書紀』に物語が記されていることと、強頸が実際に殺されたことは別だ。現在まで残るのは伝承と地名で、埋葬を裏付ける人骨は見つかっていない。
服装だけで選ばれた男
島根県の松江大橋には、源助という男の伝説がある。
最初の大橋建設は難航した。昼間に進めた工事が夜の間に流され、ようやく橋を架けても洪水で壊れた。そこで、橋を安定させるため人を埋めることになった。
犠牲者を決める条件は、「襠のない袴をはいて橋を渡った者」。
そこへ、条件に当てはまる源助が通りかかった。源助は捕らえられ、橋の中央にある柱の下へ生きたまま埋められた。その柱は「源助柱」と呼ばれたという。
小泉八雲もこの伝説を書き残している。松江市の調査資料は、当時の橋が難工事だったことは認めつつも、伝説を史実と混同できないと注意している。源助の実在や埋葬を示す直接的な記録は見つかっていない。松江市史料調査課「松江大橋を探る」
源助は罪を犯したわけでも、自ら志願したわけでもない。服装が条件に当てはまり、そこを通りかかっただけだった。
もし別の時間に、別の人間が橋を渡っていたら、犠牲になったのは源助ではなかったかもしれない。
息子の出世と引き換えに埋められた母親
福井県の丸岡城には、お静という女性の伝説が残る。
築城中、天守台の石垣を何度積んでも崩れるため、人柱を立てることになった。選ばれたのは、隻眼で貧しい暮らしをしていたお静だった。
お静は「息子を武士に取り立ててほしい」と条件を出し、自ら命を差し出した。天守の柱の下へ埋められると、石垣は崩れなくなったという。
ところが築城を命じた柴田勝豊は別の土地へ移り、お静の息子が武士に取り立てられることはなかった。
その後、春になると雨が降り続き、堀の水があふれるようになった。人々はそれを「お静の涙」と呼び、霊を慰めるため墓を建てた。現在も丸岡城には、お静の慰霊碑と墓が残っている。坂井市「お静人柱伝説」
お静は命だけでなく、息子との約束まで奪われた。
城は残り、約束をした者は去り、雨だけが「お静の涙」として語り継がれた。
画像:丸岡城・お静の慰霊碑/藤谷良秀/Wikimedia Commons/ CC BY-SA 4.0なぜ似た話が全国に残ったのか
歴史学者の笹本正治は、資料から189件の人柱伝承を列挙している。収録されていない郷土伝承も多く、正確な総数はいまも分かっていない。人柱伝承を扱った研究論文
橋が流される。堤防が切れる。石垣が崩れる。
原因を調べる手段が乏しかった時代、繰り返される失敗は技術の問題ではなく、土地や水が人間を拒んでいるようにも見えただろう。
人柱は、神に差し出す人身御供と同じとは限らない。民俗学では、人間そのものを建造物の土台とし、死者を橋や城の守り神へ変える発想が含まれていると考えられている。
源助やお静の名が消えずに残ったのも、そのためだろう。橋や城を守る存在なら、誰がその下にいるのか忘れるわけにはいかない。
伝説の犠牲者として登場するのは、通りすがりの男、貧しい女性、よそから来た僧侶である。
人柱を必要とする側と、実際に土の中へ入る側は、初めから分かれていた。
人骨は見つかった。死の理由は見つからない
冒頭の人骨が発見されたのは、新潟県上越市の猿供養寺である。
この地域には、地すべりに苦しむ村を救うため、旅の僧が自ら人柱になったという伝説が残っていた。
寺跡から見つかった男性は、左膝を立て、右膝を折り曲げ、両手を膝へ向けた姿勢で埋められていた。1961年に新潟大学医学部が調査した結果、死亡時の年齢は40歳から50歳ほどと推定された。上越市「人柱人骨」
成人男性であることや特殊な埋葬状態は、旅の僧の伝説と異様なほど符合している。
だが、骨に死の理由は残らない。
村を救うため自ら地中へ入ったのか。死後に特殊な方法で葬られたのか。生きたまま埋められたことを示す痕跡も、本人の意思を記した記録もない。
人骨は見つかった。それでも、その男性を人柱だったと断定する最後の証拠だけがない。
人柱伝説が残したもの
人柱という発想が古くから存在したことは確かである。1603年から1604年に刊行された『日葡辞書』にも、人間を生きたまま海などへ投げ入れる行為として人柱が説明されている。
しかし、源助やお静が本当に埋められたかは別の話だ。墓や慰霊碑は、人々が犠牲者を弔ってきた証拠ではあっても、生き埋めが行われた証明にはならない。
実際の工事や洪水で命を落とした人々の記憶が、長い時間をかけて源助やお静という一人の人物へ集約されたとも考えられる。記録に名前が残らなかった死者を、伝説だけが覚えていたのかもしれない。
猿供養寺では、人骨が出る前から、地中に眠る犠牲者が語られ、供養されていた。発見された男性が村を救った僧だったかは、今も証明されていない。それでも村人は、土の下に誰かがいると伝えてきた。
人柱伝説が残したのは、昔の残酷な迷信だけではない。大勢を守るという名目があれば、一人の死を「必要な犠牲」に変えられるという人間の論理である。
だが、橋や城を造らせた権力者が、自ら土の下へ入ることはない。
そこへ送られたのは、通りすがりの男や、貧しい母親だった。

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