はっきり幽霊を見たわけではない。命からがら逃げたわけでもない。それでも、あとになって何度も思い返してしまう出来事がある。
今回は、掲示板「ほんのりと怖い話スレ」に寄せられた体験談から、静かに後を引く10本を選んだ。何もない壁、地図にないコンビニ、二階のない部屋から聞こえる足音。どれも、日常のすぐ隣で起きた話である。
何もない壁
大部屋の患者が、トイレに行くたび職員を呼ぶようになった。
「壁に、顔があるんです」
壁に人の顔のようなシミが浮かび、いつ見てもこちらを向いている。気味が悪くて落ち着かないから、上からペンキを塗って消してほしいという。
職員が付き添い、患者の指さす場所を確かめた。そこにあるのは、何の変哲もない壁だった。顔らしい模様もなければ、目につく汚れすらない。光の加減か、体調のせいだろうと宥め、その日は部屋へ戻ってもらった。
数日後、同じ大部屋の別の患者が言った。
「あそこに顔がありますよね」
さらに二人、三人と、同じ壁を気にする患者が増えていった。誰に尋ねても、指さす場所まで同じだった。
最初の患者から話を聞いたのだろう。顔があると思って見れば、何でもない壁もそう見えてくる。職員たちはそう考えたが、訴えが収まらないため、患者たちが指さすあたりをペンキで塗り潰した。
これで済んだはずだった。
数日後、今度は別の階の患者が職員を呼び止めた。最初の大部屋とは離れており、そこの患者たちと話す機会もほとんどない人だった。
その患者は、トイレの方を気にしながら言った。
「壁に、顔があるんです」
職員が見に行くと、そこにも何もなかった。
病院では近いうち、その壁も塗り直すことになった。
舞台袖のいたずら
小さな劇場で、本番前の通し稽古が行われていた。
稽古が終わった直後、一人の女優が舞台の上で動かなくなった。顔から血の気が引き、暗い舞台袖を指さしている。
「あそこに、手が……」
袖の奥から、白い手だけが伸びていた。腕も体も見えない。手首から先だけが宙に浮かび、舞台にいる彼女を呼ぶように、ゆっくりと手招きをしていたという。
女優はその場で泣き出した。周囲が声をかけても、舞台袖を指さしたまま取り乱している。
すると、共演していた男優の一人が手を上げた。
「ごめん。俺のいたずらだ」
袖に隠れ、驚かせようとしただけらしい。女優はひどく怒ったものの、幽霊ではなかったと分かると、ようやく落ち着いた。張りつめていた空気も緩み、劇場には笑い声が戻った。
稽古場から人が引き始めた頃、その男優が演出担当者を人目のない場所へ呼んだ。
「さっきの、俺じゃないです」
女優があまりにも怯えていたから、自分のいたずらだったことにした。それだけだという。
念のため、白い手が見えた時間の舞台進行を調べた。
その時刻、舞台袖には誰もいなかった。
駐車場の自転車
友人と二人で山へドライブに出かけ、道に迷った。
地図を開いても、今どこにいるのか分からない。頼みのカーナビは壊れ、画面の中では車が海の上を走っている。日が落ちるにつれ、道は細くなっていった。民家もなければ街灯もない。
そのまま走り続けていると、山の上の方にぽつんと明かりが見えた。近づいてみると、コンビニだった。
駐車場には車が一台と、何台かの自転車。ガラスの向こうには数人の客がいて、店員も普通にレジに立っている。
二人は、ようやく人のいる場所へ出られたと胸を撫で下ろした。店員に町までの道を教えてもらい、何度も礼を言って店を出た。
教えられた通りに進むと、細かった道が少しずつ広くなり、やがて遠くに町の明かりが浮かんだ。
もう大丈夫だと思ったところで、駐車場に並んでいた自転車が頭に浮かんだ。車で来た客なら分かる。だが、街灯も民家もない山道を、あの自転車はどこから上ってきたのだろう。
帰宅した二人は、地図を広げて山の周辺を調べた。
あの場所に、コンビニはなかった。それどころか、通ったはずの山道沿いには、店らしい建物が一軒もなかった。
正月の廃病院
実家の近くに、古い廃病院があった。
石造りの大きな建物が何棟も並び、広い敷地には池や森まである。子どもの頃には探検をし、中学や高校に上がってからは、友人たちと肝試しにも出かけた。地元を離れたあとも、帰省するたびに立ち寄るほど見慣れた場所だった。
その年の正月には、妻を連れて行った。二人で建物の中を歩くと、妻は「古いドラマの舞台みたい」と喜んでいた。
それから八か月ほど経った夏。再び実家へ帰り、いつものように廃病院へ向かうと、そこには何もなかった。
石造りの建物も、池も、周囲を覆っていた木々もない。敷地にはフェンスが張られ、その向こうに重機が置かれている。正月には確かにあった建物が、跡形もなく消えていた。
夕食の席で、父親に尋ねた。
「あの病院、いつ壊したの?」
父親は何気なく答えた。
「去年の秋には、もう更地だったぞ」
今年の正月、妻と二人で病院の中を歩いている。そう伝えても、父親は前年の夏から解体が始まり、秋には何もなくなっていたと言う。工事を請け負った業者の名前まで知っていた。
母親に尋ねても、答えは同じだった。実家の近くに、あれほど大きな廃墟はほかにない。別の建物と取り違えるはずもなかった。
事情を伏せたまま、妻にも聞いてみた。
「正月に、どこへ行ったか覚えてる?」
妻は迷うことなく答えた。
「廃病院でしょ。二人で中を歩いたじゃない」
二つの呼び出し音
釜臥山にあるレーダー基地へ配属された。山からは、恐山を見下ろすことができる。
まだ配属されて間もない頃、山中の送信所で作業をしていた。無線機の自己診断プログラムを動かしている間は、特にすることがない。手持ち無沙汰のまま、廊下や階段を映す監視モニターを眺めていた。
画面の端から、男の顔が入ってきた。
見覚えのない中年の男だった。顔だけが、カメラを覗き込むようにゆっくりと現れ、そのまま画面の外へ消えていった。
すぐに先輩へ報告した。
「今、監視カメラに変な男が映りました」
先輩はモニターを確かめようともせず、ひと言だけ返した。
「ああ、出るよ」
しばらく働くうちに、基地にはほかにも妙なことがあると知った。ときどき、誰もいない場所からインターホンが鳴る。
長く勤めている職員たちは、誰かが押した音と、無人の場所から鳴る音を聞き分けていた。二つは、ほんの少しだけ音が違うらしい。
冬になると、山は深い雪に閉ざされる。人が歩けるはずのない食堂の外を、人影が横切ることもあった。
それでも誰も騒がない。
振り向く者さえいなかった。
真上の足音
高校の卒業式から数日後、同級生の実家である寺に二十人ほどが集まった。卒業すれば、それぞれ別の道へ進む。その前に皆で宴会をしようという話になり、寺の広い座敷を貸してもらった。
酒も入り、宴会はかなり盛り上がった。そのうち、オカルト好きの七、八人が別の部屋へ移り、怪談を始めることになった。明かりを消し、部屋の中央にロウソクを一本だけ立てる。
初めのうちは隣の座敷から笑い声が聞こえ、怖い雰囲気にはならなかった。ところが話が進むにつれ、一人、また一人と口数が減っていく。
頭の上から、ゆっくりとした足音が聞こえた。
寺には家族も住んでいる。誰かが二階を歩いているのだろうと、皆さほど気には留めなかった。だが足音は次第に近づき、やがて部屋の真上を行ったり来たりし始めた。
そこで、寺の息子が口を開いた。
「次は俺が怖い話をする」
彼は皆に、中央のロウソクを見るよう促した。細長く揺れていたはずの炎が、いつの間にか丸く膨らんでいる。
「炎が丸くなるのは、近くにいる証拠なんだ」
皆は笑った。そんなものは信じられない。真上の足音だって、誰かが二階を歩いているだけだろう。
寺の息子は少し黙り、天井を見上げた。
「この部屋の上に、二階はないよ」
誰も返事をしなかった。ロウソクの炎は、丸い玉のように膨らんでいる。
間を置かず、天井の上から、何か重いものが落ちたような音がした。
二人分の声
平日の昼下がり、一人の女性が市ヶ谷駅から九段下方面へ歩いていた。
しばらくすると、すぐ後ろから中年男性二人の会話が聞こえてきた。声が大きい。しかも、ずいぶん距離が近い。
女性は歩く速度を上げた。けれど、二人の声は離れない。
さらに速く歩く。やがて、ほとんど走るような速さになった。それでも会話は、首のすぐ後ろから聞こえ続けていた。
振り向くことはできなかった。
そのまま進んでいると、前方に大きなショーウインドーが見えた。速度を落とさず、ガラスに映る背後を見る。
そこにいたのは、一人だった。
中年の男が、声色を変えながら一人で話している。わずかに立ち位置をずらし、二人の男が会話しているように聞かせていた。
駅前から数百メートル。
男はずっと、一人で二人分の会話を続けながら、女性のすぐ後ろを歩いていた。
午前一時三十分
夜十一時頃にベッドへ入った。
深夜、枕元のラジカセから突然、大音量のラジオが流れ始めた。驚いて飛び起き、慌ててスイッチを切る。時計は午前一時三十分を指していた。
誤ってタイマーを設定してしまったらしい。そう考え、もう一度眠った。
翌朝、友人のMと学校へ向かっていると、Mが昨夜の話を始めた。
夜中、机に向かって勉強していたMがふと顔を上げると、部屋の隅に彼が立っていたという。
初めはぼんやりと霞んでいた姿が、少しずつ輪郭を持ちはじめる。やがてゆっくりと浮かび上がり、ベッドをすり抜け、そのまま天井の中へ消えていった。
本人は、その時間、自分の部屋で眠っていた。
気になって、Mに時刻を尋ねた。
「一時半くらいだったかな」
ラジカセが鳴ったのと、同じ時刻だった。
そんなものを見て、なぜ怖くなかったのかと聞くと、Mは不思議そうな顔をした。
「だって、お前、ずっと笑ってたから」
ジャンプ公園
小学一年生か二年生だった頃、仲の良い友人が三人いた。四人でよく公園の砂場に山や水路を作り、バケツで水を運んでは流して遊んでいた。
ある日、いつもの公園へ行くと、上級生たちが砂場を使っていた。自転車で追い回され、四人は公園から逃げ出した。別の公園にも行ってみたが、そこにも先客がいる。
すると、誰かが言った。
「ジャンプ公園に行こう」
正式な名前ではない。子どもたちの間だけで、そう呼ばれていた公園だった。隣には雑木林があり、遊具も多い。広い公園なのに、昼間でもほとんど人の姿がなく、学校では幽霊が出るという噂もあった。
四人が着いたときも、公園には誰もいなかった。初めは少し怖がっていたものの、遊び始めるとすぐに忘れた。砂場に山を作り、水路を掘り、水を流す。夢中になっているうちに日が傾き、町の放送が聞こえてきた。
道具を片付け、四人で帰り始めたとき、一人が言った。
「誰もいなかったわけじゃないよな」
ほかの三人には、何のことか分からない。
「ブランコで、女の子が遊んでたじゃん」
水汲みをしていたのは、この話をした本人だった。遊んでいる間に何度もブランコの前を通っている。水道がすぐそばにあったからだ。けれど、女の子など一度も見ていない。
嫌な感じを抱えたまま家へ帰り、そこで水汲みに使ったバケツを公園に忘れたことに気づいた。母親に話すと、もう暗いから明日取りに行きなさいと言われた。
夜九時頃、仕事を終えた父親が帰ってきた。
「玄関の前に放っておくな。ちゃんと片付けろ」
父親の手には、バケツがあった。名前も住所も書かれていない。それでも、泥や砂の付き方を見れば分かる。
夕方までジャンプ公園で使っていた、あのバケツだった。
一人くらい
家に、立派な人形が飾られていた。
祖父がよく通っていた寿司店に、マー坊と呼ばれる板前がいた。独身だったが子どもが好きで、幼い孫ともよく遊んでくれた。その子が生まれたとき、祝いに贈ってくれたのが、その人形だった。
ところが、ある時期を境に人形は突然なくなった。
大人になってから人形のことを尋ねると、母親はしばらく黙り、捨てたのだと答えた。
マー坊は晩年、重い病気にかかっていた。自分がもう長くないと悟った頃、その子を連れていこうと家まで来たことがあったという。家族は必死に説得し、どうにか帰ってもらった。マー坊は、その後間もなく亡くなった。
それでも、祝いにもらった人形をすぐに捨てることはできなかった。家族はしばらく、そのまま飾っていた。
すると、幼い子の夜泣きが急にひどくなった。落ち着いていたアトピーも悪化し、人形を見るたび激しく泣き出すようになった。
母親は人形を捨てた。それから夜泣きも、皮膚の症状も、少しずつ収まっていった。
母親が今も夢に見るのは、人形ではない。子どもを連れに来た日の、マー坊の顔だった。
家族がどれだけ説得しても、マー坊は同じことを繰り返していた。家には二歳下の妹もいるのだから、と。
「一人くらい、くれてもいいでしょう」
哲学ニュースnwk

















もう閉鎖されてはいかがでしょうか