本日8月14日午後9時から、金曜ロードショーで『風の谷のナウシカ』が本編ノーカット放送される。
1984年の公開から40年以上。物語を知っている人も多いだろう。しかし映画で描かれたのは、漫画版全7巻のうち第2巻途中までを再構成したものにすぎない。
王蟲の怒りが鎮まり、青い衣のナウシカが金色の触手の上を歩く。映画では伝説の成就によって物語が閉じるが、漫画版はそこから、人間、腐海、蟲の存在理由まで覆していく。
映画の美しい結末は、長い物語の答えではなく、まだ入口だった。
映画の見方ナウシカが見ていたのは「毒の森」ではない
「火の七日間」で巨大産業文明が滅びてから約1000年。地上には有毒な瘴気を放つ腐海が広がり、人間は巨大な蟲におびえながら暮らしている。
胞子が村へ入り込めば、森を焼かなければならない。瘴気を吸えば命を落とす。人々にとって腐海は、いずれ自分たちの土地を奪う敵だった。
ナウシカは城の地下で腐海の植物を育て、毒が生まれる理由を調べていた。きれいな水と土で育てた植物は瘴気を出さない。毒を持っていたのは植物そのものではなく、植物が吸い上げた大地の汚染だった。
皆が森を焼こうとするなか、ナウシカはその中へ入り、何が起きているのかを確かめる。この姿には、主人公のモデルの一人とされる『堤中納言物語』の「虫めづる姫君」が重なる。人々が美しい蝶を好むなか、毛虫を観察し、その変化に心を奪われた姫君だ。
ナウシカという名前は、ギリシャ叙事詩『オデュッセイア』に登場する王女ナウシカアに由来する。異国から流れ着いた英雄を恐れずに助けた王女と、人々が嫌う虫を愛した日本の姫君。その二つが、腐海へ入っていく少女の中で重なった。
タイトルにある「風」も、爽やかな背景ではない。海から吹く風が腐海の瘴気を遠ざけているからこそ、谷の人々は暮らしていける。風が止まるたび、安全に見えた生活が危うい均衡の上にあることが分かる。
そしてナウシカ自身も、最初から完成された聖女ではない。父を殺されたと知った瞬間、怒りに我を忘れ、トルメキア兵を次々と斬り倒す。ユパが止めなければ、さらに血が流れていた。
蟲の怒りを鎮める少女も、自分の怒りを止めることはできなかった。自分の中にも暴力があると知った後、ナウシカは怒りのまま剣を振るわない道を選ぶ。
映画の見方王蟲の怒りを作ったのも人間だった
映画終盤、赤い目になった王蟲の大群が風の谷へ押し寄せる。
自然が人間へ復讐する場面にも見えるが、暴走を仕組んだのはペジテの生き残りだった。王蟲の幼生を傷つけて空中からつり下げ、大群をトルメキア軍へ誘導したのである。
トルメキアは巨神兵で腐海を焼こうとし、ペジテは王蟲を兵器として利用する。立場は違っても、巨大な生命を自分たちの目的に従わせようとする点では変わらない。
人間は理解できないものを恐れながら、利用できると見るや、今度はそこへ手を伸ばす。
ナウシカは傷ついた幼生を大群へ返し、自分の身を差し出す。王蟲の怒りは、さらに強い兵器をぶつけるのではなく、怒りが生まれた原因を取り除くことで止まった。
王蟲の体液で青く染まった服と、金色に輝く触手は古い伝承と重なる。予言どおりの人物が現れたとも取れるし、ナウシカの行動を目撃した人々が、そこに伝承の意味を見いだしたとも読める。
ナウシカ自身は救世主になろうとしたわけではない。ただ、目の前で傷ついている命を群れへ返そうとした。その行動が、人々の目には伝承どおりの奇跡として映った。
制作秘話「原作がないなら、自分で描く」から始まった
『風の谷のナウシカ』の漫画が生まれた背景には、当時の映画業界の事情があった。
『アニメージュ』編集者だった鈴木敏夫が宮﨑駿の企画を社内へ持ち込んだところ、「原作のない作品は映画にできない」と退けられた。そこで宮﨑駿は、自分で原作を描くことになる。
ただし、映画化のための簡単な下書きにはしなかった。漫画でしか描けない世界を目指した結果、物語は映画の規模を大きく超えていく。
漫画の連載が始まったのは1982年。映画化が決まった時点でも物語は完結しておらず、宮﨑駿は連載途中の世界を約116分の映画として組み直すことになった。
だから映画と漫画では、登場人物の役割も国家間の関係も違う。映画版は漫画をそのまま短縮したものではなく、連載初期の構想を基に作られた、もう一つの『風の谷のナウシカ』だった。
制作秘話スタジオジブリすらなかった 約3億円規模の賭け
現在では代表的なジブリ作品として扱われているが、制作当時、スタジオジブリはまだ存在していなかった。
アニメーション制作を担当したのは、日米合作作品などを手がけていたトップクラフト。スタジオジブリが設立されたのは、ナウシカ公開翌年の1985年である。
制作費は資料によって差があり、直接制作費約2億8000万円、または約3億円規模と伝えられている。制作期間は1983年5月末から1984年3月初めまでの約9カ月。完成から数日後の3月11日には劇場公開を迎えた。
約116分の本編に使われた作画は5万6078枚、使用色は263色。現在のデジタル制作とは違い、動きも色も人の手で一枚ずつ積み重ねられた。
全国の観客動員は約91万5000人、配給収入は約7億4000万円。興行収入は推計約14億8000万円とされる。現在のジブリ映画と比べれば小さく見えるが、当時の公開規模を考えれば十分な成功だった。
宮﨑駿は後に、この成功によって再び映画を作る機会が得られるかもしれないと安堵した趣旨の言葉を残している。ナウシカの成功が次の作品を作る足場となり、その後のスタジオジブリ設立へつながっていった。
制作秘話若き庵野秀明が描いた「崩れながら動く巨神兵」
映画終盤、クシャナの命令によって巨神兵が早すぎる覚醒を迎える。
骨と肉がまだ固まっておらず、自分の重さにも耐えられない。歩くだけで身体が崩れ、溶けた肉を引きずりながら、それでも光を放とうとする。
この場面の原画を担当したのが、後に『新世紀エヴァンゲリオン』を生み出す庵野秀明だった。
当時の庵野は、動画の実務経験もほとんどない若手だった。宮﨑駿と仕事をするため大阪から上京し、制作現場に寝泊まりしながら作業を続けたという。
人手不足だった制作現場で、宮﨑駿は庵野の持ち込んだ作品を見て才能を認め、クライマックスの重要な場面を任せた。庵野は巨神兵、戦車、爆発のほか、王蟲が走る一部の場面も担当している。
一方、庵野は人物を描くことを苦手としていた。巨神兵のそばに立つクシャナなど、人物部分には宮﨑駿自身が第2原画として手を入れた。
巨神兵がただ強いだけの兵器ではなく、誕生そのものに失敗した生き物のように見えるのは、崩壊と動きを同時に描いたあの作画によるところが大きい。
庵野は後に宮﨑駿を「第2の師匠」と語っている。ナウシカで描いた巨神兵から、後の庵野作品へ直接つながったと断定はできない。それでも、巨大な兵器と生物の境界が崩れていく映像に、後の作品を重ねたくなる人は多いだろう。
制作秘話久石譲との出会いと、4歳の少女の歌声
本作は、宮﨑駿と久石譲が初めて組んだ長編映画でもある。
当時まだ広く知られていなかった久石を音楽担当に推したのは、プロデューサーの高畑勲だった。宮﨑駿は音楽面を高畑に任せ、久石と高畑の打ち合わせは一度に10時間近く続くこともあったという。
ナウシカの感情へ直接音楽を重ねるのではなく、彼女が見ているもの、感じ取った世界へ音を置く。腐海の不気味さや、空を飛ぶ解放感、王蟲の神秘性は、音楽によって輪郭を与えられた。
王蟲の触手にナウシカが包まれる場面で聞こえる「ラン、ランララ」という少女の声は、久石の娘・麻衣。録音当時はわずか4歳だった。
王蟲の映像にも、手作業ならではの工夫がある。十数個に分かれた殻を別々に動かすことが難しかったため、分解したパーツをゴムの上に置き、ゴムを伸縮させて全身が波打つような動きを作った。「ゴムマルチ」と呼ばれる手法である。
腐海深部の湖では、完成した背景を水で洗って絵の具をにじませる「洗い描き」が使われた。ボツになったものを含めると、作品全体で約1500枚の背景が描かれたという。
画面に映る数秒のために、人が描き、洗い、貼り、動かす。現在見ても腐海が妙に生々しいのは、その画面に、素材に触れ、動かした人の手の跡が残っているからかもしれない。
漫画版漫画版では戦争が終わらない
映画が終わった場所で、漫画版のナウシカは本格的な戦場へ向かう。
漫画は1982年から、映画制作などによる休載を挟み、1994年まで足かけ13年にわたって描かれた。
物語の中心にあるのは、トルメキア王国と土鬼(ドルク)諸侯連合の大戦争だ。風の谷はトルメキアとの盟約によって参戦を求められ、病気の父に代わってナウシカが出征する。
トルメキアと土鬼のどちらか一方だけを、悪として片づけることはできない。王位継承、宗教、民族、復讐、兵士たちの忠誠が絡み合い、それぞれが自分の正しさを抱えて戦っている。
クシャナの印象も大きく変わる。漫画版では母が正気を失い、自身も王家の争いで命を狙われている。冷酷な指揮官でありながら部下を見捨てず、兵士たちから絶大な信頼を集める、もう一人の主人公と呼べる存在だ。
戦争が激しくなるなか、土鬼は腐海の菌を生物兵器として利用する。ところが菌類は人間の制御を離れて突然変異し、巨大な粘菌となって土地をのみ込んでいく。
かつて巨神兵を作って文明を滅ぼした人類が、今度は腐海を兵器に変える。世界が壊れた理由を知りながら、人間は同じ発想へ戻ってしまう。
暴走した粘菌に呼応して、王蟲をはじめとする蟲の大群も動き出す。腐海が一気に拡大する「大海嘯」が始まり、トルメキアと土鬼の双方が壊滅的な被害を受ける。
土鬼が使った粘菌兵器も、その背後にある旧文明の技術も、たどれば聖都シュワの墓所へ行き着く。戦争を止めるだけでは、同じ破滅はまた繰り返される。ナウシカの旅は、世界を作った仕組みそのものを確かめるため、シュワへ向かっていく。
漫画版腐海による浄化が、現在の人類を滅ぼす
映画では、腐海が汚染された大地を浄化していることが希望として示された。
ところが漫画版では、浄化が終わった後に、今の人類が生きられないことまで明かされる。
腐海は自然に生まれた森ではなかった。旧文明の人類が汚染された地球を元へ戻すため、菌類と蟲を組み合わせて作った巨大な浄化システムだった。
さらに墓所の主は、ナウシカたち現在の人類も、汚染された環境で生きられるように身体を作り変えられた存在だと告げる。
腐海が大地を浄化し終えれば、美しい世界が戻ってくる。だが、汚染に適応した現在の人類は、清浄すぎる環境では生きられない。
人類を救うために始まった浄化が、今を生きる人類を消してしまう。
世界がきれいになるほど、ナウシカたちは生きられなくなる。旧文明が目指した清浄な世界は、今の人類にとって救いとは限らなかった。
漫画版ナウシカを「母」と呼ぶ巨神兵
世界が大海嘯にのみ込まれていくなか、戦乱の中で巨神兵も覚醒する。映画では身体を崩壊させて死んだ巨神兵だが、漫画版ではナウシカとともにシュワへ向かうことになる。
ナウシカは巨神兵に「オーマ」と名づける。名前を与えられた瞬間、巨神兵はただの兵器ではなくなる。急速に知性を得たオーマは、ナウシカを「母」と呼び始める。
やがてオーマは自らを世界の調停者、裁定者と考え、圧倒的な力で善悪を裁こうとする。その身体から出る毒は、近くにいる人間の命まで奪っていく。
オーマは悪意から破壊するのではない。自分には善悪を裁く資格があると信じ、逆らう者を圧倒的な力で消し去る。
オーマの危うさを知るナウシカ自身も、最後にはその力でシュワの墓所を破壊する。
漫画版ナウシカは「正しい未来」を破壊した
シュワは土鬼の聖都であり、その中心にある墓所には、火の七日間以前の知識と技術が保存されていた。土鬼が生物兵器を作ることができたのも、墓所からもたらされた旧文明の技術があったからだ。
墓所には、地球の浄化が終わった後の計画も残されていた。汚染以前の人類や動植物を復活させ、争いや苦しみを抑えた文明を築く。その日まで、腐海も蟲も現在の人類も、世界を浄化する役割を担う。
墓所の主は、計画に協力すれば、ナウシカたちを清浄な世界へ適応させることもできると説く。
墓所は、分かりやすい悪の本拠地ではない。失われた詩や音楽、科学を守る箱舟であり、人類が生き延びる可能性を残した場所でもある。
それでもナウシカは、墓所の破壊を選ぶ。オーマに命じ、旧文明が用意した未来を消し去った。
現在を生きる人々を、遠い未来のための道具として扱わせない。その決断には一貫した理由がある。
しかし、ナウシカは全人類の同意を得たわけではない。清浄な世界で生きる方法が見つかる保証もない。墓所を壊したことで、人類が生き残る可能性まで失われたという見方もできる。
生命を外から裁く神を拒んだナウシカ自身も、結果として多くの人間の未来を決めた。この矛盾が、漫画版の結末に割り切れなさを残している。
漫画版映画と漫画は、同じ場所を見ていた
ペジテは王蟲の幼生を戦争に使い、旧文明はナウシカたちを地球浄化に使った。どちらも、今を生きる命を未来の目的に従わせている。
映画のナウシカは、兵器にされた幼生を群れへ返した。漫画版では、現在の人類を一時的な存在として扱う旧文明の計画を壊した。
映画は伝説の成就と和解で終わる。漫画版は、未来を保証していた墓所をナウシカが破壊して終わる。
今夜の放送で見るナウシカは、金色の野に降り立つ救世主だ。だが、その先の彼女は、用意された救済さえ疑い、正しいとされた未来を破壊する。
墓所が消えた後に残ったのは、誰も人類の生存を保証してくれない世界だった。
ナウシカの選択は生命の解放だったのか。それとも、未来を奪うもう一つの独断だったのか。
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