兄貴は、俺が話し終わっても、すぐには返事をしない。
電話だと、切れたのかと思うことがある。
子供の頃からそうだった。
親父に怒られて兄貴の部屋に逃げ込むと、兄貴はゲームをしながら話を聞いてくれた。俺が泣いて喋れなくなっても、続きを急かすことはなかった。
そのうちコントローラーを置いて、
「で、どうしたいんだ」
と聞いた。
仕事を辞めたときも、結婚するときも、最初に相談したのは兄貴だった。
妻と揉めるようになってからも、そうだった。
電話だと、切れたのかと思うことがある。
子供の頃からそうだった。
親父に怒られて兄貴の部屋に逃げ込むと、兄貴はゲームをしながら話を聞いてくれた。俺が泣いて喋れなくなっても、続きを急かすことはなかった。
そのうちコントローラーを置いて、
「で、どうしたいんだ」
と聞いた。
仕事を辞めたときも、結婚するときも、最初に相談したのは兄貴だった。
妻と揉めるようになってからも、そうだった。
去年の秋、妻に、夕飯は家で食べるかとメッセージを送った。
返事がないので、もう一度送った。それでも既読にならないので電話した。
帰ってきた妻に、何かあったのかと聞いた。
「仕事だよ」
「それなら一言、返せばいいじゃん」
妻は鞄を置いて、
「見てないんだから返せないでしょ」
と言った。
その言い方に腹が立った。心配していたのに、面倒くさそうにされるのが嫌だった。
兄貴に電話すると、
「仕事中なら仕方ないだろ」
と言われた。
俺は、でもさ、と言いかけてやめた。
兄貴も黙った。
しばらくして、
「一言くらい返せるだろ、とは思うよな」
と言った。
それで少し気が済んだ。
「そうなんだよ」
俺が言うと、兄貴は、
「ん?」
と聞き返した。
「返事くらいできるだろってこと」
「ああ……でも、帰ってきたんだろ?」
そこは少し噛み合わなかった。
ただ、その日は話を聞いてもらえただけでよかった。
その頃から、妻がスマホを伏せて置くのが気になり始めた。
風呂に入るときも、脱衣所まで持っていく。夜、台所で電話をしていて、俺が行くと切る。
誰と話していたのか聞くと、母親だと言う。
一度、
「本当に?」
と聞いた。
妻はスマホを持ったまま、俺を見た。
「何が言いたいの」
「別に。聞いただけ」
「じゃあ、そういう聞き方しないで」
その晩、兄貴に浮気だと思うかと聞いた。
「それだけじゃ分からないだろ」
と言われたので、最近あったことを話した。
返信が遅い。電話を俺のいないところでする。スマホにロックが掛かっている。
「ロックは、お前も掛けてるだろ」
確かにそうだった。
俺が黙ると、電話の向こうも静かになった。冷蔵庫の音が聞こえていた。
「何もないなら、そんなに怒らないと思うけどな」
兄貴が言った。
「だよな。何もないなら怒らないよな」
「いや、そんなこと言ってないぞ。疑われたら嫌だろ」
そこへ妻が来たので、俺は電話を切った。
「私のこと話してた?」
と聞かれた。
何を話したか気になるんだな、と思った。
帰りが遅くなる日は、どこに寄るのか聞くようになった。
買い物と言われれば店の名前を聞いた。帰ってくると、買ってきた袋を見た。
ある日、妻がスマホの画面を差し出してきた。
俺からのメッセージが並んでいた。
今どこ。
何時になる。
電話できる?
まだ仕事?
その下にもあった。
「これ、怖いよ」
妻が言った。
「返事がないからだろ」
そう答えると、妻は画面を消した。
兄貴には、何を聞いても妻が嫌な顔をすると話した。
メッセージの数は言わなかった。
一度だけ、仲直りしかけたことがある。
その日は妻の方から、話がしたいと言った。
電話の相手は本当に母親だった。俺のことを相談していたらしい。
帰る時間を何度も聞かれるのがつらい。誰かと電話をしているだけで疑われる。家に帰る前に、今日は何を聞かれるんだろうと考えるようになった。
「誰かいるとかじゃないんだよ」
妻は膝の上で手を握っていた。
「あなたが怖いの」
そのときは、俺も悪かったと思った。
謝ると、妻は何度か頷いて、ティッシュで鼻をかんだ。
そのあと、二人で夕飯を食べた。テレビに、前に二人で行った店が出ていた。俺が食べたものを間違えて覚えていて、妻が笑った。
妻が風呂に入っている間に、兄貴へ電話した。
仲直りできたと伝えるつもりだった。
「そっか。よかったな」
兄貴が言った。
俺は安心して、椅子の背にもたれた。
電話の向こうが静かになった。
「お前が納得したんなら、いいけど」
俺は体を起こした。
「何かおかしい?」
「何が?」
「今、納得したならって言っただろ」
「いや、よかったなって。ちゃんと話せたんだろ?」
俺が引っかかったので、言い直したんだと思った。
「話せたけどさ」
その先が出てこなかった。
怖いと言われた。
そんなつもりじゃなかったのに、謝ったのは俺だった。
「結局、お前が謝ったんだな」
兄貴の声がした。
電話を終えたあとも、俺は椅子に座っていた。
風呂から出てきた妻に、
「でもさ」
と声を掛けた。
妻がタオルを首に掛けたまま止まった。
「お前も、誤解させるようなことはしてたよな」
妻は俺の顔ではなく、手に持っていた携帯を見た。
「また、お兄さん?」
「兄貴は関係ないだろ」
「さっき、分かったって言ってくれたじゃん」
「だから、俺は謝っただろ」
妻はタオルの端で口元を押さえた。
それから、
「電話する前は、普通に話せてたのに」
と言った。
十二月に、妻が出ていくと言った。
帰宅すると、玄関に旅行鞄が置いてあった。
しばらく母親のところで暮らす、と言われた。
俺は、
「本当にお母さんのところ?」
と聞いた。
妻の顔を見て、失敗したと思った。でも、そのあとに何と言えばいいか分からなかった。
今夜だけ話そうと言った。
もう話した、と返された。
妻が鞄を持とうとしたので、俺が先に取った。
「返して」
「少し話すだけだろ」
妻は鞄から手を離し、靴を履き始めた。
俺は鞄を廊下に置いて、ドアの前に立った。
妻がドアノブへ手を伸ばしたので、その前に体を寄せた。
妻が手を引っ込めてから、俺はドアを背にして座った。
兄貴に電話した。
出るまで、妻を見ないようにしていた。
「今、出ていくって言ってる」
兄貴に事情を聞かれたけど、うまく話せなかった。
妻が出ていく。今、玄関にいる。
その二つばかり繰り返した。
「一回落ち着け」
兄貴が言った。
俺は膝に額をつけた。
妻が、
「そこ、どいて」
と言った。
電話の向こうが静かになった。
「今出したら、もう帰ってこないぞ」
俺は顔を上げた。
「そうだよな。今出したら、帰ってこないよな」
兄貴が何か言っていた。妻も喋っていた。
俺は携帯を耳に押しつけた。
少しして、
「話が済むまで、そこにいろ」
と聞こえた。
「分かった。ここにいる」
と答えた。
妻は居間に戻った。
電話で住所を伝えているのが聞こえた。
「夫が玄関の前に座って、出してくれなくて」
俺はそこで初めて、警察を呼んでいると気づいた。
警察の人に言われて、俺は立った。
妻は鞄を持って出ていった。
俺の横を通るとき、壁の方へ体を寄せた。
それが、妙にはっきり残っている。
その後は妻の母親が間に入った。
直接連絡しないでほしいと言われた。謝りたいと伝えたら、今はそっとしておいてほしい、と返ってきた。
兄貴にも同じことを言われた。
「今は連絡するな。少し時間を置け」
俺は腹が立った。
「兄貴だって、帰すなって言っただろ」
兄貴は黙った。
俺は待った。
「言ってないぞ」
と言われた。
翌日、兄貴が来た。
あの晩の電話を、途中から録音していた。
俺が何度も同じことを言うので、酒でも飲んでいるのかと聞いたらしい。それにも答えなかったそうだ。
「翌日になったら、覚えてないって言うと思ったんだよ。だから途中から録った」
「何も飲んでなかったよ」
「とにかく、一回聞いてくれ」
兄貴は携帯を食卓に置いた。
録音の俺は、息が荒かった。
『とにかく、今出ていくって』
兄貴の声がした。
『一回落ち着け』
妻の、そこどいて、という声。
そのあと、服のこすれる音が続いた。
『そうだよな。今出したら、帰ってこないよな』
兄貴が答えた。
『今日は帰してやれ。その状態じゃ話せないだろ』
俺は返事をしなかった。
妻が鞄を返して、と言っていた。
『おい、聞こえてるか』
兄貴が俺の名前を呼んだ。
また、何も話していない時間があった。
『分かった。ここにいる』
俺の声がした。
そこで「止めて」と言った。
「帰すなって言ったところは?」
「言ってない」
「そこにいろって」
兄貴は首を振った。
もう一度、同じところを聞いた。
俺が覚えている言葉は、二つとも入っていなかった。
兄貴が黙っている間、俺も黙っていた。
それから、分かった、と答えていた。
「前から、たまにあったんだよ」
兄貴が言った。
「俺が喋ってるときは返事しないのに、黙ると急に、そうだよな、って」
俺は携帯を引き寄せて、少し戻した。
「そこ、さっきも聞いたろ」
「ちょっと待って」
携帯を耳に当てた。
音量を上げると、俺の息が大きくなった。
兄貴は夕方までいた。
眠れているかとか、ちゃんと食べているかとか聞かれた。
ここ最近、あまり寝ていないと言うと、一度病院に行ってみないかと言われた。
「俺も行って説明するから」
俺は、考えとく、と答えた。
帰り際に、
「でも、本当に聞こえたんだよ」
と言った。
兄貴は玄関で振り返った。
「うん」
「兄貴の声だったんだよ」
「それは分かった」
「じゃあ、俺はどうすればよかったんだよ」
兄貴はすぐには答えなかった。
俺は待っていた。
「奥さん、どいてって言ってただろ」
俺は返事をしなかった。
兄貴が靴を履く音を聞いていた。
それから、兄貴の電話には出ていない。
録音は送ってもらった。
最初のうちは、兄貴が黙っているところばかり聞いた。
でも、何度聞いても妻の「どいて」が聞こえるので、やめた。
夜になると、兄貴の連絡先を開く。
発信はしない。
画面を消して、耳に当てる。
初めてそうしたときは、自分でも何をしているんだろうと思った。
何も聞こえなかった。
それでも、毎晩やっていた。
ある晩、妻が出ていった日のことを話した。
途中で喋れなくなって、しばらく携帯を持ったまま座っていた。
それからまた話した。
警察を呼ばれたこと。
妻が俺を避けて通ったこと。
母親を通さないと、謝ることもできないこと。
話し終わって、待った。
「帰ってほしくなかったんだよな」
兄貴が言った。
俺は、うん、と答えた。
昨日、兄貴が家に来た。
インターホンが鳴って、それからドアを叩く音がした。
「いるんだろ。顔だけ見せてくれ」
俺は居間で、携帯を耳に当てていた。
何度か呼ばれた。
返事はしなかった。
やがて玄関が静かになった。
それでも、しばらく待った。
「やっと帰ったな」
耳元で聞こえた。
俺は小さく笑ってしまった。
今夜は、何から話そうかと思った。

返事がないので、もう一度送った。それでも既読にならないので電話した。
帰ってきた妻に、何かあったのかと聞いた。
「仕事だよ」
「それなら一言、返せばいいじゃん」
妻は鞄を置いて、
「見てないんだから返せないでしょ」
と言った。
その言い方に腹が立った。心配していたのに、面倒くさそうにされるのが嫌だった。
兄貴に電話すると、
「仕事中なら仕方ないだろ」
と言われた。
俺は、でもさ、と言いかけてやめた。
兄貴も黙った。
しばらくして、
「一言くらい返せるだろ、とは思うよな」
と言った。
それで少し気が済んだ。
「そうなんだよ」
俺が言うと、兄貴は、
「ん?」
と聞き返した。
「返事くらいできるだろってこと」
「ああ……でも、帰ってきたんだろ?」
そこは少し噛み合わなかった。
ただ、その日は話を聞いてもらえただけでよかった。
その頃から、妻がスマホを伏せて置くのが気になり始めた。
風呂に入るときも、脱衣所まで持っていく。夜、台所で電話をしていて、俺が行くと切る。
誰と話していたのか聞くと、母親だと言う。
一度、
「本当に?」
と聞いた。
妻はスマホを持ったまま、俺を見た。
「何が言いたいの」
「別に。聞いただけ」
「じゃあ、そういう聞き方しないで」
その晩、兄貴に浮気だと思うかと聞いた。
「それだけじゃ分からないだろ」
と言われたので、最近あったことを話した。
返信が遅い。電話を俺のいないところでする。スマホにロックが掛かっている。
「ロックは、お前も掛けてるだろ」
確かにそうだった。
俺が黙ると、電話の向こうも静かになった。冷蔵庫の音が聞こえていた。
「何もないなら、そんなに怒らないと思うけどな」
兄貴が言った。
「だよな。何もないなら怒らないよな」
「いや、そんなこと言ってないぞ。疑われたら嫌だろ」
そこへ妻が来たので、俺は電話を切った。
「私のこと話してた?」
と聞かれた。
何を話したか気になるんだな、と思った。
帰りが遅くなる日は、どこに寄るのか聞くようになった。
買い物と言われれば店の名前を聞いた。帰ってくると、買ってきた袋を見た。
ある日、妻がスマホの画面を差し出してきた。
俺からのメッセージが並んでいた。
今どこ。
何時になる。
電話できる?
まだ仕事?
その下にもあった。
「これ、怖いよ」
妻が言った。
「返事がないからだろ」
そう答えると、妻は画面を消した。
兄貴には、何を聞いても妻が嫌な顔をすると話した。
メッセージの数は言わなかった。
一度だけ、仲直りしかけたことがある。
その日は妻の方から、話がしたいと言った。
電話の相手は本当に母親だった。俺のことを相談していたらしい。
帰る時間を何度も聞かれるのがつらい。誰かと電話をしているだけで疑われる。家に帰る前に、今日は何を聞かれるんだろうと考えるようになった。
「誰かいるとかじゃないんだよ」
妻は膝の上で手を握っていた。
「あなたが怖いの」
そのときは、俺も悪かったと思った。
謝ると、妻は何度か頷いて、ティッシュで鼻をかんだ。
そのあと、二人で夕飯を食べた。テレビに、前に二人で行った店が出ていた。俺が食べたものを間違えて覚えていて、妻が笑った。
妻が風呂に入っている間に、兄貴へ電話した。
仲直りできたと伝えるつもりだった。
「そっか。よかったな」
兄貴が言った。
俺は安心して、椅子の背にもたれた。
電話の向こうが静かになった。
「お前が納得したんなら、いいけど」
俺は体を起こした。
「何かおかしい?」
「何が?」
「今、納得したならって言っただろ」
「いや、よかったなって。ちゃんと話せたんだろ?」
俺が引っかかったので、言い直したんだと思った。
「話せたけどさ」
その先が出てこなかった。
怖いと言われた。
そんなつもりじゃなかったのに、謝ったのは俺だった。
「結局、お前が謝ったんだな」
兄貴の声がした。
電話を終えたあとも、俺は椅子に座っていた。
風呂から出てきた妻に、
「でもさ」
と声を掛けた。
妻がタオルを首に掛けたまま止まった。
「お前も、誤解させるようなことはしてたよな」
妻は俺の顔ではなく、手に持っていた携帯を見た。
「また、お兄さん?」
「兄貴は関係ないだろ」
「さっき、分かったって言ってくれたじゃん」
「だから、俺は謝っただろ」
妻はタオルの端で口元を押さえた。
それから、
「電話する前は、普通に話せてたのに」
と言った。
十二月に、妻が出ていくと言った。
帰宅すると、玄関に旅行鞄が置いてあった。
しばらく母親のところで暮らす、と言われた。
俺は、
「本当にお母さんのところ?」
と聞いた。
妻の顔を見て、失敗したと思った。でも、そのあとに何と言えばいいか分からなかった。
今夜だけ話そうと言った。
もう話した、と返された。
妻が鞄を持とうとしたので、俺が先に取った。
「返して」
「少し話すだけだろ」
妻は鞄から手を離し、靴を履き始めた。
俺は鞄を廊下に置いて、ドアの前に立った。
妻がドアノブへ手を伸ばしたので、その前に体を寄せた。
妻が手を引っ込めてから、俺はドアを背にして座った。
兄貴に電話した。
出るまで、妻を見ないようにしていた。
「今、出ていくって言ってる」
兄貴に事情を聞かれたけど、うまく話せなかった。
妻が出ていく。今、玄関にいる。
その二つばかり繰り返した。
「一回落ち着け」
兄貴が言った。
俺は膝に額をつけた。
妻が、
「そこ、どいて」
と言った。
電話の向こうが静かになった。
「今出したら、もう帰ってこないぞ」
俺は顔を上げた。
「そうだよな。今出したら、帰ってこないよな」
兄貴が何か言っていた。妻も喋っていた。
俺は携帯を耳に押しつけた。
少しして、
「話が済むまで、そこにいろ」
と聞こえた。
「分かった。ここにいる」
と答えた。
妻は居間に戻った。
電話で住所を伝えているのが聞こえた。
「夫が玄関の前に座って、出してくれなくて」
俺はそこで初めて、警察を呼んでいると気づいた。
警察の人に言われて、俺は立った。
妻は鞄を持って出ていった。
俺の横を通るとき、壁の方へ体を寄せた。
それが、妙にはっきり残っている。
その後は妻の母親が間に入った。
直接連絡しないでほしいと言われた。謝りたいと伝えたら、今はそっとしておいてほしい、と返ってきた。
兄貴にも同じことを言われた。
「今は連絡するな。少し時間を置け」
俺は腹が立った。
「兄貴だって、帰すなって言っただろ」
兄貴は黙った。
俺は待った。
「言ってないぞ」
と言われた。
翌日、兄貴が来た。
あの晩の電話を、途中から録音していた。
俺が何度も同じことを言うので、酒でも飲んでいるのかと聞いたらしい。それにも答えなかったそうだ。
「翌日になったら、覚えてないって言うと思ったんだよ。だから途中から録った」
「何も飲んでなかったよ」
「とにかく、一回聞いてくれ」
兄貴は携帯を食卓に置いた。
録音の俺は、息が荒かった。
『とにかく、今出ていくって』
兄貴の声がした。
『一回落ち着け』
妻の、そこどいて、という声。
そのあと、服のこすれる音が続いた。
『そうだよな。今出したら、帰ってこないよな』
兄貴が答えた。
『今日は帰してやれ。その状態じゃ話せないだろ』
俺は返事をしなかった。
妻が鞄を返して、と言っていた。
『おい、聞こえてるか』
兄貴が俺の名前を呼んだ。
また、何も話していない時間があった。
『分かった。ここにいる』
俺の声がした。
そこで「止めて」と言った。
「帰すなって言ったところは?」
「言ってない」
「そこにいろって」
兄貴は首を振った。
もう一度、同じところを聞いた。
俺が覚えている言葉は、二つとも入っていなかった。
兄貴が黙っている間、俺も黙っていた。
それから、分かった、と答えていた。
「前から、たまにあったんだよ」
兄貴が言った。
「俺が喋ってるときは返事しないのに、黙ると急に、そうだよな、って」
俺は携帯を引き寄せて、少し戻した。
「そこ、さっきも聞いたろ」
「ちょっと待って」
携帯を耳に当てた。
音量を上げると、俺の息が大きくなった。
兄貴は夕方までいた。
眠れているかとか、ちゃんと食べているかとか聞かれた。
ここ最近、あまり寝ていないと言うと、一度病院に行ってみないかと言われた。
「俺も行って説明するから」
俺は、考えとく、と答えた。
帰り際に、
「でも、本当に聞こえたんだよ」
と言った。
兄貴は玄関で振り返った。
「うん」
「兄貴の声だったんだよ」
「それは分かった」
「じゃあ、俺はどうすればよかったんだよ」
兄貴はすぐには答えなかった。
俺は待っていた。
「奥さん、どいてって言ってただろ」
俺は返事をしなかった。
兄貴が靴を履く音を聞いていた。
それから、兄貴の電話には出ていない。
録音は送ってもらった。
最初のうちは、兄貴が黙っているところばかり聞いた。
でも、何度聞いても妻の「どいて」が聞こえるので、やめた。
夜になると、兄貴の連絡先を開く。
発信はしない。
画面を消して、耳に当てる。
初めてそうしたときは、自分でも何をしているんだろうと思った。
何も聞こえなかった。
それでも、毎晩やっていた。
ある晩、妻が出ていった日のことを話した。
途中で喋れなくなって、しばらく携帯を持ったまま座っていた。
それからまた話した。
警察を呼ばれたこと。
妻が俺を避けて通ったこと。
母親を通さないと、謝ることもできないこと。
話し終わって、待った。
「帰ってほしくなかったんだよな」
兄貴が言った。
俺は、うん、と答えた。
昨日、兄貴が家に来た。
インターホンが鳴って、それからドアを叩く音がした。
「いるんだろ。顔だけ見せてくれ」
俺は居間で、携帯を耳に当てていた。
何度か呼ばれた。
返事はしなかった。
やがて玄関が静かになった。
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